かの大戦争により焦土と化していた我が国土。
硝煙冷めやらぬ昭和21年2月13日の午前10時、マッカーサーの名代としてGHQ民政局長のホイットニー准将、ほか3名のGHQ高官が吉田茂外相の公邸に訪れました。
当時の外相公邸は、政府が原田積善会という財団から借り上げたもので現在の六本木1丁目8番地にありました。
今は石碑だけが遺っています。
ホイットニー准将に付き添ってきた3名とは、ケーディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐、いずれもマッカーサーの腹心で日本国憲法草案(GHQ草案)の作成に関わった面々です。
彼らが吉田外相の公邸に訪れた目的は、新憲法制定のための秘密交渉を行うためでした。
以下に述べることは、ホイットニー准将に随行したラウエル陸軍中佐が遺した一次史料により明らかになったことです。
公邸に到着したホイットニーらは、ガラス張りの明るく快適な部屋に通されました。
部屋には既に吉田茂外相、国務大臣で憲法博士の松本烝治、そして通訳の長谷川元吉がいて、ホイットニーらを部屋まで案内したのは吉田の腰巾着の白洲次郎でした。
このうち松本烝治は、マッカーサー(GHQ)から新憲法の草案作成を求められていた日本人のひとりで、この時点で既に一度、GHQに松本草案を提出していました。
ところが、その内容がマッカーサー元帥のお眼鏡に叶わず、元帥の激しい怒りを買って即刻破棄されていたことを、このときの松本は知る由もない。
吉田たちは立ち上がってホイットニーらを出迎えました。
テーブルには、既にGHQに提出されていた松本草案と思われる紙やノートが雑然としており、吉田や松本たちがギリギリまで憲法の草案を練っていた様子が垣間見えたという。
また、ホイットニーらは窓を背にして座ったため、対面に座った吉田たちの顔が陽光に照らされて細かな表情まで実によく見えた、とラウエルは述べています。
席につくと、さっそくホイットニーが松本草案について一語一語念を押すようにゆっくりと死刑宣告を述べはじめました…
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