このところ、戦時中の昭和天皇について、「単なるお飾りではなく、軍の作戦に強い影響力を持っていた」と説明する動画や言説を目にする機会が増えています。
そうした主張の多くは、天皇のご下問や叱責によって軍の計画が修正された事例を挙げ、「統帥権的作用があった」と評価しています。
一見すると、従来の「天皇は無力だった」という単純な理解を修正する、バランスの取れた見方のようにも映ります。
しかし、ここには見過ごすことのできない問題があります。
それは、天皇の「権限の性質」そのものが理解されていないという点です。
大日本帝國憲法体制における天皇は、「統治権の総攬者」と位置づけられていました。
しかし同時に、天皇は親政を行わないことが原則とされ、政治は内閣の輔弼、軍事は統帥部の輔翼によって担われていました。
これは慣習ではなく、制度設計そのものです。
天皇は、政治や軍事の具体的決定を自ら下す存在ではありません。
政府や軍がまとめた案を裁可し、必要に応じて疑義を呈することはあっても、命令として覆すことは想定されていませんでした。
したがって、天皇が前面に立って政策を否定・指示することは、制度そのものの崩壊を意味していました。
動画でよく紹介されるのが、昭和14年の帝国海軍作戦計画、いわゆるシンガポール攻略をめぐる事例です。
当初、上陸地点として中立国タイのシンプラ(ソンクラー)海岸が想定されていたところ、昭和天皇が「理由なき第三国の中立侵害は正義に反する」と指摘し、結果として英領マレー側に変更された、という話です。
この事例自体は、史料上確認されている範囲の事実とされています。
しかし、ここから導かれる意味を誤ってはいけません。
この場面で昭和天皇が行ったのは、命令ではなく、ご下問です。
作戦を指示したわけでも、統帥権を直接行使したわけでもありません。
「中立侵害について、外交的・道義的な説明はつくのか?」と、その整合性に疑義を示したにすぎないのです。
確かに、天皇のご下問は重い。
それによって軍首脳が再検討を余儀なくされ、結果として計画が修正されることはあり得ます。
しかしそれは、天皇の言葉が法的権限として作動したのではなく、制度内部の自律的忖度が働いた結果です。
この点を曖昧にしたまま、「統帥権的作用があった」と表現することは、極めて危険です。
なぜなら、その延長線上に、「それほどの影響力があったのなら、なぜ開戦を止めなかったのか」「止められたのに止めなかったのではないか」という理解が、必然的に生まれてしまうからです。
しかし、これは事実に反します。
昭和16年、対米英戦争開戦の年には、4回の御前会議が開かれています。
そのすべてにおいて、昭和天皇は明確に平和を希求する姿勢を示しています。
外交努力の継続を求め、戦争の結果に深い憂慮を示していました。
それでも、開戦は止まりませんでした。
これは、天皇が消極的だったからでも、無責任だったからでもありません。
天皇ですら止めることができなかった制度構造による限界が存在していた、という事実を示しています。


