南京攻略の真実

南京攻略の真実

今日は、12月13日です。

2014年の今日、中国共産党は12月13日を「国家公祭日」に定めたのをご存知でしょうか?

シナ(China)事変の過程で日本軍が南京を制圧した日(12月13日)に、いわゆる「南京大虐殺」があったこととされ、それをプロパガンダするための記念日にされたわけです。

むろん、いわゆる「南京大虐殺」は、東京裁判で連合国が捏造したものです。

戦後教育(GHQ教育)を受けた私たち戦後世代は、近代史と占領史をあまり理解していないので、少し説明が必要になろうかと思います。

1937年8月に起きた第二次上海事件以来、シナ事変は次第に拡大していきました。

因みに、第二次上海事件こそ、蒋介石軍による日本人居留民への一方的な攻撃ではじまっています。

それでも日本政府は、シナ事変をはやく収束することを求めていました。

ところが、負けては逃げ、逃げては再び執拗に攻撃を加え、まったく和平協議に応じようとしない蒋介石軍に日本軍は手を焼きます。

こうなると「蒋介石のいる首都・南京を攻略しなければシナ事変を終わらせることができないのでは…」と日本政府は判断せざるを得ませんでした。

つまり、首都さえ制圧すれば、さすがの蒋介石も講話に応じるだろうと考えたわけです。

日本軍は1937年12月1日に南京攻略を開始し、12月13日にはあっさりと決着がつきます。

その際、日本はそれまで以上に慎重を期して南京攻略に臨みました。

なぜなら、満洲事変以来、シナ事変に対する国際社会の関心が最高潮に達していたからです。

第二次上海事変の被害者には欧米人が多く含まれていたのですから、なおさらです。

また、当時の南京には多くの外国人ジャーナリストがいて、もしわずかでも日本軍の落ち度が報じられることになれば、国際社会で日本の立場はさらに悪くなってしまいます。

そのような危惧から、南京城を包囲した日本軍は、まず籠城している蒋介石軍にオープン・シティ勧告を出しました。

オープン・シティとは、いわば無血開城です。

無血開城してくれれば、攻撃することなく和平協定に入ることができますので、街を戦火に曝すこともなくなります。

ところが、蒋介石はそれを拒否。

しかも、こともあろうに何の戦後処理もせずに蒋介石が南京を脱出してしまったため、蒋介石軍は司令官不在のまま徹底抗戦をしかけてきました。

やむを得ず、日本軍の松井石根将軍は、全軍に軍規の徹底を呼びかけつつ南京の制圧を命じました。

日本軍が外国の首都を制圧するのは最初の例でしたので、後世の模範となるようにとの配慮からだったと思われます。

かくして南京は陥落し、今度こそ講話が叶うかに見えたのですが、結局は叶いませんでした。

すでに英米ソの後ろ盾を得ていた蒋介石が、あくまでも徹底抗戦をするという姿勢を崩さなかったからです。

ここで、日本軍による南京制圧について、3つの事実だけ示しておきたいと思います。

まず第一に、南京が陥落する前の南京の人口は約20万人でした。

このことは、当時の外国人たちの統計によって明らかにされています。

そして陥落して一ヶ月後の統計では約25万人まで増えています。

第二に、南京をオープン・シティにしなかった責任は蒋介石側にあり、日本軍が不要な攻撃を加えた事実はありません。

第三は、当時の南京にはあれほどの外国人がいたにもかかわらず、正式に日本の残虐行為なるものに抗議を申し入れた政府は一つもなかったという事実です。

もしも「大虐殺」があったのなら、蒋介石はそのときにどうして抗議をしなかったのでしょう。

むろん、毛沢東も文句を言っていません。

南京が陥落する前は、日本の飛行機の爆弾が民家に誤爆したりすると、そのたびに蒋介石は国際連盟に訴えているのに、そんな大虐殺とやらがあったのなら、なぜ国際連盟に訴えなかったのでしょうか。

要するにこの話は、東京裁判がはじまってから突如として出てきたイカサマな話なのです。

その東京裁判の記録をみると、「虐殺があった…」と証言するマギーという米国の牧師が出てきます。

マギー牧師が「現場で虐殺を見た」と言うので、日本側の弁護団がマギー牧師に次のように質問しました。

「あなたは虐殺があったと言うけれど、虐殺されるのを実際に何人見ましたか?」

この質問にマギー牧師は「一人です」と答えました。

弁護側はさらに、その状況の説明を求めました。

すると、マギー牧師は「ある中国人が安全地区に入ろうとしたとき、日本の歩哨が『止まれ』と命令をしたのだが、その中国人は命令を聞かずに逃げ、そのために撃たれた」と答えます。

例えば、現在でも観光か何かでニューヨークを訪れ、ニューヨーク市警の人に「止まれ」と言われているのに止まらずに逃げ去ろうとしたら、きっと撃たれますよ。

日本人留学生が、ハロウィンの夜にお菓子をもらおうと米国人の家を訪ね、「フリーズ(止まれ)」と言われたのにもかかわらず動いてしまい射殺されたという事件もありました。

いわんや、当時の南京は首都攻防戦が戦われ、硝煙の匂いが冷めやらぬ戦場だったのです。

いつゲリラに襲われるかわからない状況の中で、日本軍の歩哨が「止まれ」と命令したのです。

にもかかわらず逃亡しようとしたとなると、歩哨だって撃たざるを得ないのではないでしょうか。

逆に、もしも撃たなければ、その歩哨が任務を果たさなかったことにさえなりかねません。

東京裁判で出された「虐殺の証拠」というのは、概ねこの程度の話だったのです。

そもそも、20万人の人口が25万にまで増えた都市で、どうやって30万人の虐殺ができると言うのか。