新自由主義との闘いは続く

新自由主義との闘いは続く

新自由主義(ネオリベラリズム)は、1970年代後半から1980年代初頭にかけて急速に台頭し、今なお多くの政治家や政党、官僚、経営者、ビジネスマン、経済学者、マスコミの頭を支配し続けているイデオロギーです。

そのイデオロギーの主眼は、自由競争市場が資源配分の効率化をもたらし経済厚生を最大化させる、というものです。

だから、民営化、自由化、規制緩和、自由貿易、緊縮財政(財政収支の縮小均衡)、グローバリズム、これらはすべて正しい、となります。

こうした新自由主義に基づく政治と経済政策が世界中に普及したことにより、世界各国では、特に日米欧などの裕福な経済国家では、富裕層とそれ以外の人々の格差が年を追うごとに拡大し、社会に溝をつくりだし、人々の不安を拡散させつつ、ときに反発を煽り立て、世の中を混乱させるまでに至っています。

具体的には、米国のトランプ大統領の出現、英国のブレグジット、さらにはフランスにおける「黄色いベスト」運動、世界有数の格差社会とも言われる中国での人民による抗議行動(最近では退職者らの抗議行動が象徴的)、すべての原因は新自由主義というイデオロギーによってもたらされた格差にあります。

たしかにグローバル化は特定の資本家たちを豊かにしたかもしれませんが、とりわけ先進国の工場地帯を荒廃させ、中間所得層を破壊させたことで、先進各国のネイティブ国民の政治への不満を爆発させています。

不思議なことに、爆発していないのは日本だけ。

それどころか、日本維新の会のような新自由主義を地でゆく政党が躍進する始末です。

そのくせ日本維新の会は、なぜか「保守」を標榜しています。

おそらくは「保守」の意味をよく理解できていないのだと思われます。

ご承知のとおり、保守の源流は18世紀の英国の政治家、エドマンド・バークの思想にあると言われています。

たとえば、保守と新自由主義では人間観そのものが異なります。

新自由主義が想定する人間とは、原子論的個人、すなわち社会に影響されることのない孤立した個人です。

これを彼らは「経済人(homo economicus)」、あるいは「合理的経済人」と呼びます。

実は新自由主義が主張する「自由競争市場が正しく機能すると経済厚生が最大化する」という仮説は、世の中のすべての人間が「経済人」であることを前提にして成立しています。

どうみても、この世の中に「経済人」などいるわけがない。

一方、保守は、自分の生まれた国や共同体がもつ固有の生活様式、文化、国土、環境といったものに制約された社会的(原子論的ではない)存在として人間を捉え、また人間存在とはそうあるべきだと考えられてきました。

その他にも保守と新自由主義の相違点はたくさんあり、保守が尊ぶものと新自由主義が望むものとは全く反対なのでございます。

だから維新の会が保守を標榜するのは、実に滑稽です。

川崎市議会にも5人の維新会派がありますが、彼ら彼女らに「保守とは何ですか?」と一度尋ねてみたらいい。

さて、川崎市議会では来週の月曜日(9月4日)から、9月定例会がはじまります。

今議会では、市民館と一部の図書館に「指定管理者制度」を導入するための議案が市長から提案されます。

この「指定管理者制度」もまた、小泉内閣の構造改革(新自由主義に基づく改革)によって導入された制度です。

残念ながら今の川崎市政は、「新自由主義の見直し…」がはじまっている世界の趨勢を無視して、新自由主義に基づく政策を更に推し進めようとしています。

過日、川崎市議会の文教委員会において、当該制度導入に関する説明が教育委員会から為され、それに対する質疑が行われました。

しかしその際、新自由主義とは何かを明確にしつつ、当該制度の問題点を指摘した委員は、不肖・私だけでした。

今定例会での議案審査が、第2ラウンドとなります。