独力でロシアを退けた国

独力でロシアを退けた国

本日は、2月24日です。

ロシアがウクライナへの特別軍事作戦を開始して、ちょうど1年となりました。

さて、2月24日といえば、今から119年前となる明治37(1904)年の今日は、日露戦争においてわが国の連合艦隊が旅順港閉塞作戦(第一次閉塞作戦)を決行した日です。

因みに、日露戦争に至った経緯は次のとおりです。

開戦前、ロシアは北清事変終結の際に約束した満洲からの撤兵を履行しないばかりか、新たに満鮮国境に軍隊を駐屯させて朝鮮にまで毒手を伸ばしてきました。

安全保障上、絶対に朝鮮半島を譲れない日本は、満洲撤兵の履行と満洲・朝鮮における権益の相互承認についてロシアとの粘り強い外交交渉に努めました。

圧倒的な軍事力を背景にして満洲への兵力増強をはかるロシアは、交渉には応じていたものの要塞の強化や兵站基地の物資集積を行って、鴨緑江北岸の鳳凰城や安東県の軍事施設の強化などを着々と進め、交渉には全く誠意を見せませんでした。

あまつさえ、ロシアは満洲における権益を独占する意図を露骨に示し、協議内容を韓国問題のみに限定することを要求して交渉の引き伸ばしをはかり、さらなる軍備の強化を進めました。

今日においてもそうですが、外交交渉は軍事力を背景にして行われるものです。

当時、交渉が引き伸ばされればされるほどに、その軍事力に差が出てしまうことは明らかでした。

背景にある軍事力が劣勢に立たされるほどに、その国の交渉力は弱体化していきます。

ゆえに、時間の空費で不利になることを恐れた日本政府は、やむを得ず2月4日に国交断絶と開戦を決定したのです。

国交断絶の通知が、駐露公使からロシア政府に手交されたのは2月6日のことです。

同日、作戦開始が発令され、東郷連合艦隊司令長官は主力を率いて旅順港へ赴き、8日の夜、駆逐隊が奇襲攻撃をしかけました。

これが、いわゆる「仁川沖海戦」であり、制海権争奪の初戦において日本は勝利しています。

わが国連合艦隊による開戦劈頭の攻撃に驚いたロシア旅順艦隊は、旅順港内に閉じこもって出ようとはしませんでした。

そこで連合艦隊は、旅順港口の水道に老朽船を沈めて閉塞する計画を立てました。

これこそが「旅順港閉塞作戦」であり、第一次閉塞作戦が決行されたのが2月24日の夜のことです。

その後、203高地を奪取し旅順要塞を攻略するために、日本軍が甚大な被害を被ったのは周知のとおりです。

日露戦争の結果については周知とおりですが、わが国は甚大な犠牲のもとにかろうじて勝利したのです。

この戦争において、わが国が頼れた外国勢力は同盟を締結していたイギリスだけでした。

とはいえ、イギリスは地理的にあまりにも遠かったがゆえに、直接的に軍事的援助を受けることはできませんでした。

NATOなど、欧米から惜しみなく武器弾薬を供給されている現在のウクライナのような恵まれた状態ではなく、しかも武器や戦艦を国産化する力もなかった日本は、外国から借金をしてそれらを購入したのです。

当時は未だ、現在のように自国通貨建てで国債を発行できなかったので、きっちり借金を返済しなければならなかったわけですが、日本がその借金を返済し終えたのは昭和60(1985)年のことです。

地政学的にユーラシア大陸の内陸中央に囲い込まれているロシアは、安全保障上どうしても「封じ込め!」られる圧力に対しては、必ず抵抗する力がはたらきます。

だからこそ、極東方面では、凍らぬ海を求めて日本との戦争に至ったわけです。

かつて『x論文』を著し、米国の対ソ戦略を確立したジョージ・ケナンは「NATOの東方拡大はロシアに要らぬ刺激を与えるからやめろ…」と警鐘を鳴らしていました。

その警鐘を無視した米国は、ウクライナの内政に諜報工作をしてまでNATOに引き入れようとしました。

まるで、かつて日本政府が絶対に受け入れることのできない「ハル・ノート」を突きつけたように…