ウクライナ侵攻までの道

ウクライナ侵攻までの道

ウクライナ大統領府によれば、きのう13日にも首都キエフ近郊にドローンを使った攻撃があり、インフラ設備が被害を受けたとのことです。

都市部への無差別攻撃により多くの民間人に犠牲がでていることはもちろん、核の使用までをもちらつかせるプーチン大統領を「この際、抹殺すべきだ…」という声が日本でもあがっています。

さて、以下これから述べることは、ロシアがウクライナに侵攻する以前の話です。

ロシアが、ことし2月24日にウクライナに侵攻したのも、2014年にクリミアを強奪したのにも、それぞれ何らかの理由なり背景があったはずです。

1941年12月8日に、日本が真珠湾を攻撃したのにもそれなりの理由と大義があったように。

日本が対米戦争を決断し、その後、戦線が拡大せられ、シンガポールやマレー、あるいは支那事変が泥沼化して大陸に大部隊を派遣したのもすべて戦闘の状況的結果です。

問題は、なぜ日本は日米開戦を決意しなければならなかったのか、です。

同じように、なぜロシア(プーチン大統領)はウクライナに侵攻しなければならなかったのか、が気になるところです。

戦闘状態に入っている現在の姿だけをみて感傷に流されているだけでは、真実は見えてこない。

まず、2014年にプーチン大統領にクリミア併合を決意させたのは、米国がCIAなどの諜報機関を使ってウクライナの反政府デモを扇動し、親ロシア政権であるヤヌコヴィッチ大統領を失脚させたからではないのか。

しかも米国は強引にポロシェンコ親米政権を樹立して非ロシア化政策を進めさせた。

それらはプーチン大統領にクリミアを強奪させるに充分な理由を与えたことにならないのであろうか。

たしかにプーチン大統領には「大ロシア」思想があり、本来であればウクライナ全土をロシアに編入させるべきだと考えている節はありますが、それでも彼は心の奥底にその理想を抑え込んで「せめてウクライナをロシアとNATOの緩衝地帯にしてくれればそれでいい…」と主張していたはずです。

なのに米国はウクライナのNATO加盟を企てて、プーチン大統領を刺激した。

かつて(第二次世界対戦直後)、『X論文』で「ソ連をシベリア内陸部へ封じ込めるべきだ…」という論を提唱したジョージ・ケナンでさえ、冷戦後は「NATOを東方に拡大すべきではない!」と主張していました。

むろん、ロシアに不必要な刺激を与えるからです。

プーチン大統領に限らず、もともとロシアには、ただでさえ強い被害者意識があります。(どこの国にもあるものですが…)

ロシアは世界最大の領土をもつ軍事大国であり、その人口は1億4500万人を超えます。

ウクライナ侵攻直前にロシアで行われた世論調査によれば、「今回の緊張を高めたのは誰か?」という質問に対し…

①アメリカやNATO 50%

②ウクライナ 10%

③ロシア 4%

…という結果がでていました。

むろん、報道の自由に制限のあるロシアですので、その分を差し引いて考察しなければなりませんが、少なくとも彼らなりの理屈があるわけです。

例えば、ロシアの歴史を被害者としての視点でみてみると、少なくともロシアは過去に3回、西側諸国による侵略を受けています。

因みに事実として、ロシアがパリやロンドンを侵略したことは一度たりともありません。

第二次世界大戦でベルリンを制圧したことはありますが、むろんそれは不可侵条約を破ってソ連に侵略してきたヒトラー独国への反撃行動の結果です。

近代に入ってからでも、1812年に帝政ロシアはナポレオンが率いるおよそ60万のフランス軍に侵略されてモスクワが陥落しています。

このときのロシアは、ナポレオンとの戦いを「祖国戦」と呼称しています。

即ち、ロシアにとっては祖国を守るための防衛戦だったわけです。

次いで、第一次世界大戦中には、プロイセンによる侵攻を受け酷い目に遭っています。

このときロシアは同盟を結んでいたイギリスやフランスからの要請で、やむを得ず第一次世界大戦に参戦したのですが、その結果、ロシアはプロイセンに本格的に侵攻されることになります。

この当時もドイツは強かった。

苦戦を強いられたロシア軍はベラルーシやウクライナ地方から敗走。

長引く戦争によって国家財政は逼迫し、国民生活は急激に悪化します。

結果、民衆の不満が高まり革命が勃発、戦争中であるにもかかわらず帝政ロシアは崩壊してしまいました。

今度は革命派(赤軍)と反革命派(白軍)との内戦の激化により、国内はなお荒廃します。

この内戦により、約1000万人もの人口が減少したと言いますから凄まじいものです。

親を失った浮浪孤児は700万人を超え、社会インフラは19世紀レベルにまで衰退したという。

当然のことながら、工業生産も農業生産も落ち込み、1921年にはヴォルガ川沿岸地方では飢餓で500万人以上が死亡しています。

こうした混乱期にロシアは、ドイツ軍によってウクライナのほとんど、ベラルーシ、ラトビア、エストニアが占領されています。

また、トルコ軍がカフサス地方に侵攻するなど、1917〜1922年の内戦(混乱)期にロシアの領土は他方から蹂躙されたわけです。

こうしたトラウマが、ロシア人に「緩衝地帯」を求めさせるマインドの根底となっています。

国の弱体化が他国の侵略を招くからこそ、強い軍隊、それを率いる強いリーダーの必要性を誰よりも痛感しているのかもしれません。

そして、そのトラウマを決定づけたのが、第二次世界大戦でのいわゆる「凄惨を極めた独ソ戦」です。

1941年6月、ドイツ・ヒトラーは突如として『独ソ不可侵条約』を破り「バルバロッサ作戦」を発動、330万の大軍でソ連領土に侵攻します。

北はバルト海から南は黒海までの約3000キロの広大な戦線において一気にソ連軍に襲いかかり、ここから凄惨極まりない独ソ戦がはじまったわけです。

因みに、第二次世界大戦(大東亜戦争)での、我が日本国民の死者数は、軍人軍属、民間人を合わせて約310万人です。

一方、ソ連ではあの大戦で、なんと約2700万人が命を落としています。

先の2つの世界大戦で、これほどの死者を出した国はなく、桁違いの死者数です。

ゆえに、ロシア人は第二次世界大戦での独ソ戦を「大祖国戦争」と呼称しています。

むろん、死者の数だけをもって戦争の被害を論じることはできませんが、いかに独ソ戦が過酷なものであったのがわかります。

以上のように、ロシアにはロシアなりの被害者意識があるわけです。

大東亜戦争後、マッカーサー元帥は米国上院で日本が対米戦争に踏み切った理由について質問され、次のように答えました。

「日本が戦争に突き進んでいった動機は、主として安全保障の必要性に迫られてのことだった」

当時(今でも?)、侵略国家呼ばわりされていた日本ですが、日本には日本なりの事情があって、やむを得ず戦争せざるを得なかったことを敵の大将であるマッカーサーがそう言ったのです。

「多文化共生」が大事だと言うのであれば、あらゆる国や民族の立場に立って、なぜそのような行動に至ったのかを考えてあげることも大事なのではないでしょうか。