平和について考える…

平和について考える…

先日のブログでも申し上げましたが、毎年8月15日が近づいてくると「平和について考える」みたいな説教じみた番組が多くなります。

しかしながら「平和とは何か?」「平和は何によって支えられるのか?」を具体的に述べてくれる番組は皆無です。

どの番組も概ね「悲惨な戦争の記憶を風化させてはならない」という一見ごもっともそうな抽象語で誤魔化して終わる。

要するに、平和のことなど真剣に考えていないのです。

なので私は真剣かつ具体的に「平和」について考えたいと思います。

社会契約説の創始者といわれるトマス・ホッブズは、宗教から独立した「個人の自由」を充分に認めた上で、「とはいえ、そのように自由な個人を自然状態(無政府状態)のままに置いておくと、万人が万人の敵となり殺し合いをして結局は個人が亡くなってしまうことになるので、力に支えられた社会秩序が必要である。その秩序は王様の権力によってもたらされる」と言いました。

しかし、その王様の権力はいずれ化け物のように巨大となり、それはまた「個人の自由」を侵すものになることをもトマス・ホッブズは的確に指摘していました。

その王様の権力、即ち公権力の在り方をめぐって、ロック、ルソー、モンテスキューらが社会契約説を発展させ、マルクスの平等主義を加えて現代の社会が成立しているのだ、と現在の高校教科書は教えています。

その系列の中で一番昔のホッブズの「力による秩序維持」はやや古いのではないかというニュアンスで教えているわけですが、『国家の品格』を著された数学者の藤原正彦先生は「ホッブズこそが本質をついており、我々はここに戻らねばならない」と述べておられます。

本質をついたホッブズのお陰により、平和とは何かがよく理解できます。

それ即ち「秩序」のことです。

人々は秩序のないところで安全に生きることは不可能です。

ホッブズの時代までは王様の権力が秩序を支えていたわけですが、現代では国の権力がそれを支えています。

そこで、国という漢字の成り立ちを理解すると面白い。

ご承知のとおり、国の旧字は「國」です。

國は、城壁の内側の空間に「武力(矛)による秩序」が保たれている状態を意味しています。

今から110年ほど前に、マックス・ウェーバーがこの漢字の意味と全く同じことを「国家の定義」として言っています。

「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」だと。

なるほど、物理的暴力行使を独占できる状態にしておかねば国内の秩序を維持することはできないし、国家そのものを防衛することもできません。

第二次世界大戦以降の世界をみると、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争等々、いくつかの戦争が起きていますが、不幸中の幸いでいずれも「第三次世界大戦」のような国家間決戦には至っていません。

すべて局地的、一時的、限定的な紛争となっています。

現在進行形のロシアによるウクライナ侵攻が第三次世界大戦に発展する可能性は低いでしょう。

これは、1990年までは米ソという2つの軍事大国が国際秩序を形成したこと、そして1990年以降は米国(覇権国)による1極秩序によって国際秩序が形成されてきたことの結果です。

昨今、米国の覇権国としての力の相対的低下が指摘されていますが、今はまだかろうじて他の国を圧しています。

中国が台頭してきたとはいえ、単独で米国に挑戦を挑むほどの軍事力はありません。

しかし、もしも1極から2極へ、2極から多極へと秩序を支える力が分散することになれば、国際秩序(国際平和)は大きく揺らぐことになります。

ゆえに我が国も国際社会の一員として、①既存の国際秩序を維持するための役割、②既存秩序を脅かすものを除去する役割を果たしてゆかねばなりません。

そして当然のことながら、既存秩序崩壊後への備えをも怠ってはならないのでございます。

テレビや新聞は言わないけれど、平和とは秩序のことであり、秩序は武(軍事)によって支えられています。