講和より実験を優先した米国

講和より実験を優先した米国

1945年8月6日、午前8時15分、快晴だった広島市の上空600メートル地点で原子爆弾が炸裂しました。

広島への原爆投下による死者数は、現在でも正確には分かっていません。

当時の広島市内には居住者や軍人ら約35万人がいたようで、そのうち約14万人が1945年末までに死亡したと推計されています。

あれから77年目となった昨日、犠牲者を慰霊するイベントが各地で開催されたようです。

原爆が投下されたのは8月6日ですが、その11日前の7月26日に連合国側からポツダム宣言が発表されています。

それを受け日本政府はポツダム宣言に対するコメントを発表しないまま、ソ連を仲介国にして講和を受け入れる準備をしていました。

米国側は「日本がポツダム宣言を黙殺したから原爆を投下した」と主張しているわけですが、それは嘘です。

日本に講和を受け入れる意志があったからこそ、戦争が終結してしまう前にあわてて原爆を投下したのだと思います。

しかも2発も。

日本がポツダム宣言に対してコメントしなかったのは、仲介を依頼していたソ連からの返事を待っていたからです。

ちなみに当時のソ連には仲介する気などさらさらなく、不可侵条約を一方的に破棄して降伏寸前の日本に攻めてきたわけです。

そんなソ連からの返事を待っていたところに、我が国は2発も原爆を投下されたのです。

そもそも戦争を終結させるために、2発も落とす必要はない。

広島への原爆投下の地獄絵図は日本中を震撼させました。

仮に日本政府に講和の意志がなかったとしても、講和を決意させるに充分なほどの残虐性を見せつけられたのです。

なのにその3日後、今度は長崎にも投下した。

広島へ投下された原爆はウラン型、長崎に投下された原爆はプルトニウム型。

彼らはどうしても種類の異なる原爆を投下したかったわけです。

当時、日本中の都市が空襲を受け焼け野原となっていたのに、原爆投下の候補地は空襲を受けていません。

2発目のプルトニウム型原爆は小倉に投下する予定だったらしいのですが、当日の小倉は雲が多く爆発の威力が確認しずらいということで、晴れていた長崎に変更されたのです。

要するに、米国にとって原爆投下は「実験」だったのです。

この屈辱を絶対に忘れてはならない。