治水は存続をかけた宿命

治水は存続をかけた宿命

戦国時代、武田信玄が治めた甲斐国(現在の山梨県)は、笛吹川、日川、荒川、釜無川、御勅使川などの大河川が甲府盆地を縦横に流れ、頻繁に大洪水を引き起こしていた土地柄です。

ゆえに戦国大名として信玄は、領地を治める前にまずは「水」を治めなければなりませんでした。

頻繁な洪水もさることながら、急峻な山々の傾斜地に多くの棚田を造らねばならなかった歴史もあって、甲斐国では土木技術が発達しました。

その意味で甲斐国では、領民ことごとく土木技術者、と言っても過言ではありませんでした。

そうした技術力をもって信玄は、釜無川と御勅使川の合流点である竜王に堤防を構築することを決心します。

当時の釜無川は、御勅使川の急流により甲府盆地を3筋に分かれて流下し、とりわけ甲府郊外で荒川と合流して流れる東流路は、甲府盆地中心部に大きな影響を与えていたらしい。

そこで信玄は、竜王の高岩を起点に東流路を閉鎖すべく堤防を築造したわけです。

これがかの有名な信玄堤(しんげんづつみ)であり、この堤こそが甲府盆地を水害から守り、村町や農地の保護と開発を促す役割を果たしました。

むろん信玄堤のみならず、彼は領内で果敢に堤防整備を行っています。

武田信玄の偉大なところは、堤防を整備するのみならず、堤防の上に三社神社を創建し、なおかつ堤防を参道にして領民たちにお祭りを奨励したことです。

「それぞれの村からお神輿を担いで集まれ…」とやることで、領民の足が堤防の土を踏み固める役割を担ったのです。

定期的に催されるお祭りは、堤防の強度を維持するための地域イベントでもあったわけです。

現在でも凧揚げ大会、隅田川の花火大会等々、歴史ある地域イベントが堤防で行われているのはそうした名残です。

今を生きる私たちの多くは、太古の昔から日本人は沖積平野で集落を形成し暮らしてきたと思っていますが、実はそうではありません。

集落や都市が沖積平野に形成されるようになったのはつい最近のことです。

幕末の動乱を経て日本は、欧米列強の植民地にされないために近代国家の構築を急ぎ進めました。

近代国家を構築するには近代工業の勃興と発展が欠かせず、そのためには広い土地と労働力が必要となりました。

とくに原料の輸入と製品の輸出に頼らざるを得ない日本としては、物流面からも生産工場は海に近いほうがいい。

そこで、沖積平野に工場が次々と建設されていくことになりました。

工場には全国から人々が集められたので、沖積平野には住宅地がスプロール的に増殖していったわけです。

例えば、過去100年間の東京の土地利用の変遷をみますと、100年前は田畑が90%を占めていましたが、今では田畑がほぼ消え、都市部が90%となっています。

とはいえ低平地の沖積平野は洪水時の河川水位よりも低い地域であるため、海からの高潮と河川からの洪水に極めて脆弱です。

上のグラフのとおり、沖積平野の面積は国土面積の1割しかないものの、そこの人口の51%が住み、資産の75%が集積しています。

このことからも、沖積平野を洪水から守ることの重要性の高さがわかると思います。

令和元年の台風19号では、治水整備が行き届いていない地域で越流や氾濫が発生しました。

治水でもっとも脆弱な施設は「堤防」です。

ゆえに治水ダムの整備、遊水地の確保、河川の浚渫、堤防の構築等々、様々な施設を結集することで少しでも(1センチでも2センチでも)洪水時の水位を引き下げる努力が必要です。

我が日本は国土に働きかけなければ、国土からの恩恵を受けることのできない国なのです。

今年もまた、台風やゲリラ豪雨の季節が到来します。

インフラの重要性と財政を理解していない地方議員や国会議員たちが、「選択と集中」「コンクリートから人へ」「プライマリーバランスを黒字化しろぅ〜」などの愚劣なスローガンを叫び続けた結果、公共事業を悪玉とする世論が形成されてしまいました。

そうした世論を背景に政府もまた公共事業費を減らし続け、国土への働きかけを怠ってきたのです。

特異な国土形態を有する日本にとって、治水は存続をかけた宿命なのに…