日本初の株式会社

日本初の株式会社

我が国では、日本初の株式会社といえば、坂本龍馬の「亀山社中」ということになっています。

しかしながら私は、徳川幕府が慶応3(1867)年に設立した「兵庫商社」こそが、日本最初の株式会社であると確信しています。

兵庫商社は、万延元年(1860)年に遣米使節として渡米した幕臣・小栗上野介が、パナマ運河で説明を受けた鉄道会社(コムパニー)の仕組みを参考にして設立されました。

その設立建議書には次のように書いてあります。

…これまで長崎・横浜を開港したが、港を開くたびに西洋各国が利益を得ているのに反して、我が国は開港するたびに国の損になっている。

これは商人組合のやり方をとらず、小資本の商人が一人ひとりの損得で取引を行いっているからだ。

則ち小資本の商人が互いに競争で外国商人と取引しているために大資本の外国商人に利益を奪われてしまっており、このことは商人一人ひとりの損ばかりでなく国にとっても損であり、外国に侮られることになる。

だからこそ、外国人と取引するには、外国貿易の商社(西洋名:コムパニー)のやり方に基づかなくてはならない…

なるほど、外圧で港を開かされたものの、日本側には貿易競争を勝ち抜くための体制が官民ともに整っていなかったわけです。

もしも小栗の建議がなければ、外国商人にいいようにやられっぱなしになっていたことでしょう。

因みに、広辞苑で「商社」の項をみますと、商社は「Companyを小栗上野介が訳した語」とあるから凄い。

小栗は鉄道をみて機関車の速さや便利さに驚いてきただけでなく、「株式会社(Company)」の仕組みそのものを学んできたわけです。

なお、小栗はコムペニーの利益から、街のガス灯、書信館(ポストオフィシー・郵便電信制度)、鉄道などのインフラを整備しようと考えました。

現代貨幣理論という概念がなかった当時ですから、いかに財源を確保するかを考えるのは当然のことだったと思います。

小栗は神戸商社を設立するにあたり、20人の大阪商人を出資者に100万両の資金を出資させましたが、ただ出資させるだけでは商人は動かないので、代わりに同額の金礼発行を許可して利益がでるようにしました。

そして神戸商社の役員は頭取の山中善右衛門(鴻池屋)ら3名、肝煎りに6名の商人、残りの11名は世話役として構成しました。

規模、内容、国益どれをとっても、亀山社中など遠く及ばぬ国策商社(株式会社)です。

そして小栗は、この株式会社制度を利用して江戸(東京)築地に日本初の国際ホテルとなる「築地ホテル」を建設しています。

外国人が宿泊できるようにするだけでなく、おそらくは外貨獲得という目的もあったにちがいありません。

こうした小栗上野介の功績もまた、学校で教えられることがないのは誠に残念です。