通常国会の冒頭で衆議院を解散するという判断は、評価が大きく分かれています。
この判断は、単なる政局の是非ではなく、民主主義の原理と、現実の政策遂行とのあいだに横たわる緊張関係を、鮮明に浮かび上がらせています。
まず、原理の問題があります。
政権の中枢が交代し、財政運営や安全保障など、国家の基本方針が大きく転換するのであれば、あらためて国民に信を問うべきだ、という考え方です。
議院内閣制のもとで、選挙を経ないまま政策の方向性だけが大きく変わることには、民主主義的な違和感が残ります。
この意味で、解散によって民意を確認しようとする姿勢は、制度原理としてはきわめて正当です。
しかし、この原理論を厳密に適用するならば、もう一つ避けて通れない論点があります。
それは「いつ民意を問うべきだったのか」という、タイミングの問題です。
政策転換が不可避であることが見え始めた段階、すなわち昨年の時点で国民に選択を委ねていれば、原理と手続きの整合性は、より高い水準で確保されていたはずです。
通常国会冒頭という、予算審議と直結する時期での解散は、民意確認という本来の目的よりも、政局判断の色彩を強めてしまい、原理論の純度を弱める結果となります。
一方で、現実の政策過程は、原理だけで動いているわけではありません。
国会の解散は、必然的に予算編成の時間軸を狂わせます。
年度内の通常予算成立が困難になれば、暫定予算によるつなぎ対応となり、春以降の政策主導力は大きく低下します。
とりわけ、財政運営の方向性が争点となる局面では、政治の一瞬の空白が、そのまま官僚主導の既定路線を許す結果になりかねません。
問題は、勝敗そのものよりも、「不確実性」です。
解散によって政治状況が流動化すれば、重要な政策判断が先送りされ、最も力を発揮すべき時期に、政治の意思が弱まる。
その結果、制度を変えようとする試みそのものが、現実の構造制約によって押し戻されてしまう危険があります。
とくに、6月に閣議決定予定の「骨太の方針2026」からPB黒字化目標を撤廃できるのかという、もっとも重要な政策判断について不確実性が増すことは、決して軽視できません。
本来であれば、骨太の方針に一定の決着をつけたうえで、民意を問うという選択肢もあり得たはずです。
解散総選挙の結果次第では、積極財政に抵抗する官僚機構が再び主導権を握る可能性すら否定できません。
原理としては正しい。
しかし、その原理を最も生かすことのできる時間軸は、すでに過ぎ去っていたのではないか。


