国際政治の世界では、理念や善意よりも、まず現実が優先されます。
それは、生存が常に不確実だからです。
上位権力も警察も存在しない国際社会においては、国家は自ら生存を確保するしかありません。
この無政府状態においては、「やりたいかどうか」ではなく、「やらなければ生き残れないかどうか」がすべてを決めます。
このリアリズムの論理が、最も露骨に現れるのが安全保障の分野なのです。
抑止が崩れれば、国家の存続そのものが危うくなります。
そのため、安全保障政策には逃げ場がありません。
理想論や財政規律を盾に先送りすることは、現実からの厳しい報復を招くからです。
一方、日本の財政政策はどうだったでしょうか。
1997年以降、我が国政府は一貫して緊縮財政を基本路線としてきました。
プライマリーバランス黒字化目標、歳出抑制、社会保障費の自然増削減。
これらは「将来世代への責任」「市場の信認」「財政健全化」という理念と物語によって正当化されてきました。
しかし、冷静に振り返れば、これらは現実的要請ではありませんでした。
景気が悪化し、成長が止まり、社会の供給能力が毀損している局面では、本来、積極財政こそが不可欠です。
にもかかわらず、日本は緊縮を続けるという誤った選択を自らに課し続けました。
それを断行してしまった背景には、財政政策が現実要請の世界ではなく、観念と物語の世界に置かれていたことがありました。
ところが、その前提が例外的に破られた分野があります。
それが防衛(安全保障)です。
2023年以降、日本は5年間で約43兆円という、戦後例を見ない規模の防衛費増額に踏み切りました。
長年掲げてきた財政規律は後景に退き、増税・国債・歳出見直しを組み合わせてでも、防衛力整備を進める判断がなされました。
この変化は、単なる政治判断の転換ではありません。
安全保障という「現実要請の世界」が、財政政策にまで及んだ結果です。
抑止が崩れた場合、財政再建も社会保障制度も意味を失います。
国家の存続そのものが危うくなれば、将来世代という概念自体が成り立たなくなる。
その現実を前にすれば、「財政規律を損なうからできない」という言い訳は通用しません。
ここで重要なのは、防衛費増額を「米国の要請」や「対米従属」で説明すべきではないことです。
リアリズムの視点に立てば、それは日本の地理的位置と東アジアのパワーバランスが課した必然的な対応です。
誰が首相であっても、大枠は変わらなかったでしょう。
この事実は、日本政治に一つの逆説を突きつけています。
安全保障だけが、最初から現実を直視していた。
社会保障は理念と制度の世界にとどまり、財政政策は観念と物語の世界で自己制約を続けてきた。
しかし安全保障だけは、逃げ場のない現実要請の世界に直面し、財政すら動かしたのです。
本来、国家運営のあらゆる分野で問われるべきだったのは、「理念として正しいか」ではなく、「構造的に可能か」「現実からの報復に耐えられるか」だったはずです。
安全保障が財政政策を変えたのではありません。
安全保障だけが、先に現実の世界に立たされたのです。
この事実をどう受け止めるかは、これからの日本の政策全体を考える上で、避けて通れない問いだと思います。


