外国から輸入された思想や制度を、その歴史的背景や前提条件を十分に検証しないまま現実に当てはめようとする姿勢を、私は「輸入学問」と定義します。
そのうえで、以下、私の考えを述べます。
近年、「子どもの権利に関する条例」を制定する自治体が相次いでいます。
こうした条例は、川崎市が全国に先駆けて制定したことでも知られています。
当該条例については、子どもの尊厳や安全を守る取り組みとして評価する声がある一方で、家庭や学校の在り方に違和感を覚える人が少なくない。
こうした条例をめぐる議論は、「賛成か反対か」という二項対立に陥りがちですが、その枠組みだけでは問題の本質を十分に捉えることはできません。
むろん、子どもの権利という理念そのものを否定する必要はありません。
ただし、その理念がどのような現実を前提として生まれ、どのような目的のもとで形成されたのかを確認せずに制度化してしまうと、深刻な齟齬が生じます。
国連の子どもの権利条約が主として念頭に置いていたのは、児童買春や人身売買、強制労働や性奴隷といった深刻な人権侵害にさらされている、発展途上国の子どもたちの現実でした。
国家や家族、共同体が子どもを守る機能を果たしていない状況こそが、その条約の出発点だったと言えます。
ところが、この前提条件を十分に吟味しないまま、同じ理念を先進国の社会にそのまま当てはめてしまうと、問題の性質は大きく変わります。
その意味で、現在各地で制定が進む子どもの権利条例は、「輸入学問」と呼ぶべき性格を強く帯びています。
家庭や学校、地域社会が一定程度機能している社会において、子どもを一律に「権利の主体」として位置づけることは、理念とは別の構造的影響を生み出します。
本来、教育とは、子どもを将来にわたって自立した「権利の主体」として生きていけるように育てていく営みのはずです。
すなわち、権利を行使する力や、他者の権利を尊重する感覚、責任を引き受ける態度を、時間をかけて身につけさせていく過程こそが教育の本質です。
しかし、育てる前の段階から子どもを「完成された権利の主体」として制度的に扱ってしまうと、この教育のプロセスそのものが空洞化します。
子どもは守られ、導かれ、時に叱られながら、徐々に主体性を獲得していく存在であるにもかかわらず、その過程を飛び越えて、結果だけを先取りしてしまうことになるからです。
この考え方が条例という制度として実装されることで、抽象的な権利規定や第三者機関による救済制度が整備され、家庭や学校における日常的な関わりが、常に「権利侵害」と評価され得る枠組みの中に置かれることになります。
その結果、保護者や教師は、指導や注意が後に問題視されるリスクを回避しようと萎縮し、事なかれ主義に傾くことになります。
これは個々の大人の姿勢の問題ではなく、制度が生み出す合理的な行動の帰結です。
このような状況は、子どもを強くするどころか、かえって自立を遅らせる可能性があります。
権利は本来、責任や他者との関係性の中で学ばれるべきものですが、それを制度が先回りして保障し過ぎることで、学習の機会そのものが失われてしまうからです。
したがって、この問題を「子どもの権利を守るか否か」という道徳的対立で整理することは適切ではありません。
必要なのは、子どもの権利とは何を意味し、どの段階で、どのように制度として位置づけるべきなのかを改めて問い直す再定義であり、そのうえで、教育という営みの本質を損なわない形で制度を再設計することです。
思想が生まれた前提条件と、教育の時間軸を踏まえた構造分析に基づいて制度を組み立て直すことこそが、今、自治体に求められている姿勢だと考えます。


