近年、日本の政策論争では「改革」という言葉が、あまりにも安易に用いられてきました。
改革に反対すれば既得権益の擁護者とみなされ、改革を掲げれば前向きで進歩的であるかのように扱われる風潮があります。
そうした空気が、長く日本社会を覆ってきたように思います。
しかし、冷静に振り返れば、平成の30年間、日本は決して「何もしてこなかった国」ではありません。
政治、経済、財政、行政、教育、医療、エネルギー、農業――あらゆる分野で改革は繰り返し実行されてきました。
それにもかかわらず、日本経済は長期的な停滞から抜け出すことができませんでした。
この現実を前にして、なお「改革が足りなかった」と言い続けることが、果たして誠実な態度と言えるでしょうか。
問題の本質は、「改革か否か」という二項対立そのものにあります。
改革という言葉が免罪符のように使われるとき、そこでは「何を変えるのか」「なぜ変えるのか」「何を引き継ぐのか」という問いが、しばしば置き去りにされます。
改革は手段であって、目的ではありません。
ところが平成日本では、改革すること自体が目的化し、旧来の仕組みや経験は「捨てるべきもの」として扱われがちでした。
その背景には、「過去よりも現在の思考の方が常に正しい」「歴史は足かせになり得る」といった、暗黙の思想があります。
しかし歴史とは、本来、失敗の記録であると同時に、成功の蓄積でもあります。
社会がどのような条件のもとで繁栄し、どこでつまずいたのか。
その知恵を受け継がずして、未来だけを語ることはできません。
むしろ、歴史を軽んじる社会ほど、同じ過ちを繰り返します。
平成期の日本では、過去の成功体験にとらわれるなという強い言葉のもとで、歴史から学ぶ姿勢そのものが後景に退きました。
その結果、国は進むべき方向を示す羅針盤を失い、「改革」という掛け声だけが空回りしていったのではないかと思います。
歴史に学ぶとは、懐古主義に陥ることではありません。
過去を無批判に美化することでも、現状を正当化することでもない。
過去と現在を対話させ、その中から、今の社会が直面している課題の本質を見極めることです。
歴史とは、未来に進むための足枷ではなく、進路を定めるための基盤なのです。
いま問われているのは「改革を進めるか、否か」ではありません。
日本という社会が、自らの歴史とどう向き合い、何を引き継ぎ、何を変えるのかです。
その判断を、他国の理論や流行語に委ねるのではなく、自らの経験と知恵に基づいて行えるのかが問われています。
改革を叫ぶ前に、立ち止まって歴史を見つめ直すこと。
そこからしか、本当に意味のある政策も、持続可能な社会の構想も生まれてこないのではないでしょうか。


