昨年12月21日放送のNHK『日曜討論』では、日中関係をめぐる重要な論点が提示されました。
日本保守党の有本香氏が、立憲民主党の岡田克也氏が副会長を務める日中友好議員連盟について言及したのに対し、岡田氏は番組内では「それは侮辱だ」と応じるにとどまり、議論は十分に展開されないまま時間切れとなりました。
その後、岡田氏は有本氏の発言について「国防総省の報告書に該当する記載は存在しない」として反論するに至ります。
有本氏の最大のミスは、「国防総省が日中友好議連を名指ししている」かのように受け取られかねない言い方をしてしまった点にありました。
だから岡田氏に「(国防総省の報告書に)そのような記載はない」と反論されてしまったのです。
しかしながら、米国の安全保障コミュニティ(政府関係者・元高官・研究者・民間シンクタンク)が、中国が各国において、友好団体・交流組織・文化・学術・経済ネットワークなどを通じて世論や政策環境に影響を与えようとしている行動に警鐘を鳴らしていることは歴然たる事実です。
その文脈から言えば、「日中友好議連にかぎって、そうした工作の懸念はない」ことを立証・説明する責任は岡田氏の側にあります――このように有本氏は問い詰めるべきでした。
これは有本氏の主張を支持するという意味ではなく、説明責任が重くなっている現代の安全保障環境において、政治家が国際ネットワークをどう位置づけているのかを明らかにするための、当然の問いです。
このように問い詰めたなら、岡田氏には次のいずれかを説明する必要性が生じます。
1.組織・運営の違い――資金源、接触先、透明性、意思決定の独立性の公開
2.活動内容の違い――世論形成ではなく、何を行っているのかの説明
3.結果責任――日中関係の現状(対日強硬路線)と、議連活動の因果関係とをどう評価するのか
さて、そのうえで申し上げれば、今回のやり取りを、単なる「保守対リベラル」「親中か反中か」という図式で整理してはなりません。
その整理の仕方こそが、今日の国際政治と経済の実相を見誤らせることになります。
肝心なのは、経済と安全保障とを切り離して論じてはならない点にこそあります。
たとえば、20世紀後半、冷戦下においては「経済は相互依存を深め、戦争を抑止する」というリベラルな国際経済観が支配的でした。
貿易が拡大し、資本が自由に移動し、民主化が進めば、国家間の対立は自然と緩和される――そう信じられてきました。
しかし現実はどうだったでしょうか。
リーマン・ショック以降の長期停滞、格差の拡大、そして中国の台頭と権威主義体制の強化は、この楽観的な前提を根底から揺るがしました。
経済は平和の媒介どころか、制裁・依存・供給遮断といった「武器」として用いられるようになっています。
今日、国際安全保障の世界で取り沙汰されている「ハイブリッド戦」とは、まさにこの状態を指します。
軍事力だけでなく、経済、技術、情報、世論操作までを含めた総合的な競争――そこでは、平時と戦時の境界そのものが曖昧になります。
この視点に立てば、日中友好議連をめぐる議論も、別の相貌を帯びてきます。
問題は「友好か否か」という情緒的な評価ではありません。
経済交流や人的ネットワークが、国家戦略の一部として機能してしまう時代において、政治家はどのような前提認識を持つべきなのか、という問いです。
米国はすでに、中国との競争を「経済安全保障」の次元で明確に位置づけています。
インフラ投資、産業政策、技術開発への公的関与は、もはや市場への介入ではなく、国家存立の条件として正当化されています。
それは新自由主義の終焉であると同時に、中野剛志氏の言う「富国」と「強兵」が再び結びつく時代の到来を意味します。
こうした構造変化を踏まえないまま、個々の発言の是非だけを切り取って論争しても、議論は空転するだけでしょう。
むしろ問われるべきは、日本の政治が、この地政経済の時代において、どのような国家像と経済観を持とうとしているのか、という点です。
テレビ討論での“バトル”は、確かに目を引きます。
しかし、その背後で静かに進行しているのは、資本主義そのものの変質であり、国家が再び経済を引き受けざるを得なくなったという現実なのです。


