昨日のブログでは、本市が進めているソーシャルデザインセンター(SDC)事業について、「参加できない人は、どこにいるのか」という問題を取り上げました。
参加の仕組みが開かれているように見えても、その場にたどり着けない人がいる。
その現実に目を向ける必要がある、という問題提起でした。
しかし、当該事業には、もう一つ見過ごすことのできない構造問題があります。
仮に、多くの人がこの事業に参加できたとします。
多様な主体が集まり、話し合い、合意が形成されたとしましょう。
では、その結果について、最後に責任を引き受けるのは誰なのでしょうか。
SDC事業は、市民主体の運営を掲げています。
運営は団体が担い、区役所はそれを支援する立場に立っています。
そこには、協働、連携、伴走支援といった言葉が並びます。
しかし制度の形を見たとき、判断の過程には多くの主体が登場する一方で、結果がどこに帰着するのかははっきりしません。
役割は共有され、負担も分かち合われます。
けれど、うまくいかなかったときに、「最終的に私が引き受けます」と言う位置が見えない。
これは人の問題ではありません。
そうなってしまうように制度が配置されている、という構造の問題です。
市民主体であることと、責任主体が不明確であることは同じではありません。
むしろ公的な事業である以上、最終的に誰が説明し、誰が是正し、誰が政治的責任を負うのかが定まっていなければ、代表と統治の回路は閉じません。
「みんなで決めた」という言葉は、責任の所在を薄めるためにあるのではないはずです。
必要なのは、この事業の結果について、最後に名前を挙げられるのは誰か。
問われているのは、この一点です。
SDC事業が持続可能な仕組みとなるかどうかは、参加者の数やイベントの量ではなく、この責任の回路を制度として描けるかどうかにかかっています。
そこが曖昧なままでは、どれほど理念が立派であっても、統治の仕組みとして完成しているとは言えません。
だからこそ議会は、この回路がどこに閉じているのかを確認し続けなければなりません。


