責任を問う問いが、責任を果たす条件を壊す

責任を問う問いが、責任を果たす条件を壊す

今回の衆院選、投開票日の選挙報道番組で、司会を務めたタレントの 太田光 氏が、勝利した 高市早苗 首相に対し、公約を実現できなかった場合、どのように責任を取るのかと繰り返し問いかける場面がありました。

一見すると、政治家の覚悟をただしている問いのように見えるかもしれません。

しかしこの問いは、政治の現実を別の方向へ導きます。

なぜなら、公約が達成できなければ進退問題になるという基準を、先に提示してしまっているからです。

しかも、それを繰り返し問うということは、本来であれば選挙や国会、政治過程の中で形成されるべき進退の判断ラインを、外部から先に設定してしまう行為でもあります。

この前提が社会に共有されれば、政権の評価軸は変わります。

周囲からは、安定して継続する主体ではなく、条件次第で立場を失い得る存在として見なされます。

その結果、政権の求心力には疑問符が付き、いわゆるレームダック化が始まります。

例えば対外交渉においては、時間をかければ譲歩を引き出せる相手と見なされ、結果として交渉条件は不利になります。

国内政治においてもこの構図は同じです。

成功に協力するより、つまずく瞬間を待つほうが合理的だという空気が生まれ、やがて失敗待ちの政治が広がっていきます。

つまりこの問いは、責任を明確にしているように見えながら、実際には政権が責任を果たすために必要な環境を削いでしまうのです。

政治とは、不確実な条件の中でも、それでも前に進むと決断する営みです。

だからこそ本来問われるべきなのは、できなかった場合の処罰の予約ではなく、どのような現実認識のもとで目標を掲げ、どの負担やリスクを引き受けて進もうとしているのかという点にあります。

責任とは、あらかじめ退路を差し出すことではありません。

困難を承知で決断し、その結果を引き受け続ける姿勢にあります。

その覚悟を確かめる問いでなければ、政治を前に進めることにはつながらないのです。