経済を考えるうえで、最も基本でありながら、しばしば見落とされがちな前提があります。
それは、人々が消費できるのは、生産されたものだけである、という動かしがたい事実です。
私たちは日々、財やサービスを生産し、それを家計・企業・政府などが支出として購入します。
このとき、生産=支出=所得、という関係は必ず成り立ちます。
これが経済の基本構造であり、国内総生産(GDP)とは、この生産の合計にほかなりません。
重要なのは、ここからです。
需要は、制度や意思決定によって比較的容易につくり出すことができます。
減税のほか、公共投資や給付金などの政府による財政支出の拡大、あるいは賃金の引上げなど、いずれも「買う力」を生み出します。
しかし、供給能力はそう簡単には増えません。
供給能力とは、単に工場や設備の数ではありません。
そこには、
・設備
・インフラ
・技術
・人材
・ノウハウ
といった、長い時間をかけて蓄積されてきた要素が含まれます。
この供給能力が十分にある場合、多少需要が増えても、物価は安定します。
生産を増やせば応えられるからです。
一方で、供給能力が削られている社会では、話はまったく違ってきます。
需要が存在していても、「作れない」「提供できない」という状態に陥ると、限られた財やサービスを巡って価格が跳ね上がります。
これは、おカネの量の問題ではありません。
希少性の問題です。
インフレ、とりわけ制御不能なインフレは、「通貨が増えたから起きる」のではなく、供給能力が失われ、社会が必要とするものを生み出せなくなった結果として起きます。
この視点に立つと、経済政策の意味合いは大きく変わります。
需要を抑えることは、一時的には物価を落ち着かせるかもしれません。
しかし、それが長期化すれば、企業は投資を控え、人材は流出し、技術は失われます。
結果として、供給能力そのものが痩せ細っていくのです。
供給能力が削られた社会は、見かけ上は静かでも、内部では脆弱化が進みます。
いざ何らかのショックが起きたとき、支えきれず、急激な物価上昇や生活基盤の崩壊に直面します。
文明を支えているのは、金融テクニックではありません。
財政規律のスローガンでもありません。
それは、人々が必要とする財やサービスを、継続的に生産できる能力です。
設備に投資し、人材を育て、技術を磨き、インフラを維持する。
この地道な積み重ねこそが、社会の安定を支えています。
供給能力を軽視する国は、静かに、しかし確実に、文明の土台を削っていくことになるのです。
現に、世界を見渡せば、国内の供給能力を軽視してきた国や地域ほど、社会の不安定化や深刻な混乱に直面しています。


