年頭にあたり、あらためて「この国は、何によって動かされているのか」を考えたいと思います。
政治も経済も、制度や数字の話に見えて、実はその奥には、人々の意識を方向づける“言葉”の力があります。
私は昨年、その力の正体を、あらためて突きつけられる場面に何度も出会いました。
私たちはいま、生活のあらゆる領域を「市場」で測る社会に生きています。
労働は賃金で、土地は価格で、医療や教育ですら「効率」で評価される。
けれども、これらは本来、はじめから市場の商品だったわけではありません。
歴史を遡れば、社会が先にあり、市場はその内部に位置づけられた一つの機能にすぎませんでした。
ところが産業革命以降、労働力・土地・生活そのものが社会的な文脈から切り離され、「売買の対象」へと押し込まれていきました。
市場化が進むほど、共同体は分断され、弱い立場の人ほど、孤立と不安のなかに置かれる。
これは思想ではなく、社会の構造が生み出す必然です。
だからこそ、歴史的に人々は「防衛装置」を作りました。
労働を守るための労働組合。
生活を守るための生協。
自然と生産を守るための農協。
市場の競争原理に晒され、社会が壊れるのを防ぐために、人々が“もう一度、社会をつくり直す”仕組みとして生まれてきたのが、組合という制度でした。
しかし近年、この防衛装置は、新自由主義のもとで弱体化させられてきました。
組合は「非効率」「時代遅れ」「改革の障害」とされ、市場原理を優先する名目のもとで切り崩されてきたのです。
市場が社会を壊すなら、その歯止めこそが邪魔になる――そうした発想が、あちこちで見られます。
一方で、露骨な弱肉強食の思想は、もはや受け入れられにくくなりました。
そこで近年は、環境、人権、多様性といった、誰もが否定しにくい言葉が前面に掲げられるようになっています。
これらは本来、大切にされるべき価値です。
しかし、その言葉が掲げられることで、現実にどのような影響が生じているのかが十分に検証されないまま、議論が先へ進んでしまう場面も少なくありません。
美しい言葉が、現場の負担や生活への影響を覆い隠していないか。
私は、そこに強い問題意識を持っています。
言葉が積み重なることで、「仕方がない」「時代の流れだ」という受け止め方が広がり、本来問われるべき仕組みの問題が見えにくくなる。
意見や選択が、知らず知らずのうちに一定の方向へ誘導されていく——この「意見を支配する力」は、想像以上に強いものです。
議員としての私が向き合わなければならないのは、言葉と現実のあいだにあるズレです。
掲げられた理念や改革が、実際に誰を支え、誰に負担を強いているのか。
その制度は、社会を持続させる力を高めているのか、それとも静かに削いでいるのか。
派手なスローガンに流されることなく、現場の声と事実に立ち返りながら、丁寧に確かめなければなりません。
本年もまた、足元の現実から目を逸らさず、必要な問いを立て続けていきます。
この国が、言葉ではなく実態として、人を支える社会であり続けるために。
本年が、皆さまにとって、そしてこの社会にとって、少しでも確かな前進の年となることを願い、年頭のご挨拶といたします。


