主流派経済学が政策を誤らせる構造

主流派経済学が政策を誤らせる構造

今日、経済政策を語る場で「常識」とされている多くの議論は、主流派経済学の理論を前提としています。

金利をどうするか、インフレをどう抑えるか、財政赤字はどこまで許されるのか。

これらはいずれも、客観的で科学的な判断のように語られます。

しかし、残念ながら、主流派経済学は、現実の人間や社会のあり方を正しく捉えた理論とは言えません。

結論から言えば、主流派経済学は、現実の人間社会を理解するための学問として、きわめて深刻な欠陥を抱えています。

その最大の問題は、理論の根幹において「人間関係」や「社会構造」を切り捨てている点にあります。

その結果、現実の経済を説明できず、政策判断を誤らせるにもかかわらず、なお「正統」として居座り続けています。

この状態そのものが、今日の経済学の危機を象徴しています。

たとえば、主流派経済学の基礎にある一般均衡理論は、教科書的には市場がどのように均衡するかを説明する理論とされています。

しかし、この理論には決定的かつ致命的な欠陥があります。

それは、貨幣が存在しないという点です。

これは批判者の誇張ではなく、理論を構築した経済学者自身が認めている事実です。

一般均衡理論は、本質的には物々交換のモデルであり、貨幣を前提とした現実の経済とは根本的に異なる世界を描いています。

にもかかわらず、この理論が経済学の土台として扱われ続けていること自体、異様と言わざるを得ません。

主流派は貨幣を、金や商品と同じような「モノ」として扱う傾向があります。

しかし、現実の貨幣とは、誰かの債務であり、誰かの債権であり、人間同士の社会的な信用関係そのものです。

国家が発行する通貨とは、国家と国民の関係の上に成り立つ制度であり、単なる交換手段ではありません。

ところが、主流派経済学は、この人間関係を理論から排除しています。

その結果、貨幣の本質に触れることができないまま、貨幣を前提にした経済を説明しようとするという、根本的な自己矛盾に陥っています。

この矛盾の背景にあるのが、「方法論的個人主義」と呼ばれる人間観です。

主流派経済学は、社会を自律した個人の集合体とみなし、個人の行動を足し合わせれば社会全体が説明できると考えます。

ここで想定されている個人は、歴史も文化も制度も持たない、まるで物理学の原子のような存在です。

しかし、現実の人間はそのような存在ではありません。

人は、家族、地域、国家、制度、慣習といった社会的構造の中で生きています。

雇用、賃金、信用、通貨といった経済現象は、すべて人間同士の関係性の中で成立しています。

この関係性を無視し、すべてを個人に還元しようとする発想そのものが、人間観として誤っているのです。

ところが、主流派経済学を擁護する際によく持ち出されるのが、「仮定がどれほど非現実的であっても、予測が当たるなら理論は正しい」という考え方です。

しかし、この主張は二重の意味で破綻しています。

第一に、主流派経済学は、その予測自体を頻繁に外しています。

金融危機、インフレの性質、景気後退の深刻化など、いずれも事前に説明できず、事後的な言い訳に終始してきました。

第二に、予測が外れても、前提そのものを見直そうとしないという点です。

非現実的な仮定が原因で予測が外れている可能性を、理論の側が認めない。

この態度は、科学というより信仰に近いものです。

そもそも社会は、本質的に不確実なものです。

未来は開かれており、同じ条件から同じ結果が必ず生じるわけではありません。

ところが主流派経済学は、「Xが起きれば必ずYが起きる」というアルゴリズム的な世界を想定しています。

この単純化された世界観では、現実の複雑さや予測不可能性に対応できないのは当然です。

こうした理論が実務の世界で好まれる理由は、その手軽さにあります。

インフレが起きれば、その原因が物流の混乱であろうと、戦争であろうと、エネルギー価格の高騰であろうと、一律に「金利を上げる」という処方箋が提示されます。

原因分析や構造理解を省き、単一のツールを当てはめる。

この「お手軽さ」こそが、複雑な現実から目を背けたい政治家や官僚、専門家にとって都合がよく、主流派経済学が権威を保ち続ける理由でもあります。

では、なぜこれほど矛盾に満ちた理論が、学界の主流であり続けるのでしょうか。

その答えは、理論の妥当性ではなく、学界の制度構造にあります。

主流派の枠組みに沿わない論文は、主要な学術誌に掲載されにくく、掲載されなければ研究職を得ることも、キャリアを築くこともできません。

結果として、異論や批判は制度的に排除され、同じ前提を共有する研究だけが再生産され続けます。

これは学問的な自由競争ではなく、閉鎖的な自己浄化システムです。

現実を説明できず、前提は非現実的で、予測も外れ、修正もされず、異論は排除される。

このような状態を、果たして「科学」と呼べるのでしょうか。

主流派経済学が直視すべきなのは、目先のデータではなく、自らが前提としてきた哲学的な誤りです。

人間とは何か、社会とは何か、貨幣とは何か。

そこに立ち返らない限り、経済学は現実を誤解し続け、政策を通じて社会に重い代償を負わせることになるでしょう。