令和7年11月7日の衆議院予算委員会において、高市首相が「台湾有事は存立危機事態になりうる」と答弁したことを受け、左派系メディアや一部政党から、「迂闊な発言だ」「不用意に一歩も二歩も踏み込んだ」「中国を刺激した責任を取れ」といった批判が相次いでいます。
毎日新聞の報道などでは、首相の答弁メモに「具体的事例には言及しないこと」との注意書きがあったとも伝えられ、この発言はいわば“うっかり”だったのだ、という論調が形成されています。
しかし私は、この一連の議論そのものが、現在の国際環境の変化を正面から捉え損ねていると考えます。
いま問うべきは、首相の一言一句の適否ではありません。
日本が置かれている戦略環境、すなわち構造そのものです。
現在、米国は「オフショア・バランシング」のように引きすぎる戦略でも、「フル・グローバル・バランシング」のように抱え込みすぎる戦略でもなく、優先順位を明確にしたグローバル・バランシングへと舵を切っています。
その最優先地域が東アジアであることは、もはや公然の事実です。
リビジョニスト国家の中でも、中国が唯一、米国の覇権に体系的に挑戦し得る大国であり、その主戦場が台湾海峡を含む東アジアだからです。
この戦略のもとで、日本は「巻き込まれるかもしれない存在」ではありません。
抑止を成立させる側の一部として、すでに前提条件に組み込まれている国家です。
だからこそ、台湾海峡で軍事衝突が起これば、日本のシーレーン、在日米軍基地の作戦使用、日本列島の戦域化、さらには経済・物流・エネルギー供給への深刻な影響が、ほぼ自動的に連鎖することになります。
ここで改めて確認すべきなのは、安保法制における政府解釈です。
存立危機事態とは、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」がある場合を指すとされています。
この定義に照らせば、台湾海峡が封鎖され、シーレーンが遮断され、在日米軍が作戦行動に入り、日本列島そのものが戦域に含まれるような事態が、日本の存立と無関係だと言い切る方が、むしろ空想的ではないでしょうか。
高市首相の答弁は、こうした現実を踏まえた法的可能性を述べたものであり、論理的に否定することは困難です。
そもそも首相答弁は「自動的に集団的自衛権を行使する」ことを宣言したものでもありませんし、現行法制の枠内で「なりうる」という可能性を述べたにすぎません。
それを「失言」や「迂闊」として切り捨てるのは、戦略環境の変化から目を背ける行為です。
また、発言後に中国側が日本への団体旅行を制限したり、東シナ海で威圧的行動を強めたりしたことについても、「首相発言への報復だ」と説明されがちです。
しかし、これは感情的な怒りの表出ではありません。
日本に対し、「これ以上踏み込むな」というシグナルを送るための、典型的な戦略的圧力です。
中国はすでに、日本を単なる傍観者ではなく、東アジア抑止構造の一角を担う主体として認識しています。
その現実を前に、「余計なことを言うな」「波風を立てるな」と内向きに萎縮することは、抑止を自ら弱体化させることにつながります。
したがって、いま本当に問われるべきは、「台湾有事に言及したことが適切だったかどうか」ではありません。
日本は、その事態を前提とした国家の備えを持っているのか、この一点です。
発言を問題視する議論の多くは、「台湾有事は起きない」「日本は巻き込まれない」「最終的には米国が何とかしてくれる」という、すでに成立しなくなった前提に依存しています。
その前提こそが、現在の最大の問題です。
では、日本は何をすべきなのでしょうか。
それは勇ましいスローガンでも、抽象的な平和論でもありません。
国家としての足腰を、平時のうちに整えることです。
まず、法制度の面では、「個別具体的に判断する」という曖昧さを放置し続けること自体が、抑止上の弱点になりつつあります。
どのような状況で、何が可能となるのか。
最低限の想定を、政府が責任をもって国民と共有する必要があります。
我が国が採るべき具体策については、また別の項で述べたいと思います。


