私たちは、しばしば「自由主義」と「保守主義」を同じ陣営に属する思想と理解しがちです。
しかし、その前提を一度疑ってみる必要があります。
ともに社会主義や全体主義に反対する立場であるため、一見すると親和性が高いように思えます。
しかし実は、この二つの思想は、その根本において大きく異なる価値観を持っています。
自由主義が重んじるのは理性によって設計された「自由」の原則であり、市場の競争や個人の選択こそが社会の秩序を生み出す力だと信じます。
自由が最大化されさえすれば、社会はおのずと繁栄へと向かうという考え方です。
これに対して保守主義が大切にするのは、人々が長い歴史の中で培ってきた文化や慣習、共同体のあり方です。
社会とは理性によって設計できるものではなく、人知を超えた歴史的な蓄積の産物であるという認識です。
だからこそ、急進的な変革には慎重でなければなりません。
自由主義は原則を抽出し、それに社会を従わせようとします。
保守主義は社会に内在する秩序を発見し、それを尊重しようとします。
この対比は、憲法をどのように捉えるかにも直結します。
自由主義の立場では、憲法は人間の理性によって「設計」されるものです。
理念を掲げ、それに基づいて社会を組み替えるための道具となります。
ときに抽象的で普遍的な価値を掲げ、「こうあるべき」という理想型を国民に求めます。
しかし保守主義の立場では、憲法とは国民の歴史や文化が積み重なった結果として生まれてくるものです。
憲法は自然に発達してきた秩序を明文化したものであり、国柄(くにがら)そのものの表現といえます。
つまり、憲法とは「国の記憶」であり、人々によって引き継がれるべき伝統の結晶なのです。
この違いは、戦後日本における憲法観の混乱にもつながっています。
戦後の日本国憲法(占領憲法)は、外から与えられた理性的理念を中心に構築された文書であり、私たち日本人が歴史の中で育んできた秩序を体現しているはずもありません。
そのため、私たちの国柄とのあいだに、いまなお深い断絶を生んでいます。
ゆえに、私たちは今こそ、憲法に求められる役割を問い直すべきときにあります。
それは、理想を押しつけるための制度設計ではなく、国民の歴史と文化を正しく映し出す器であるべきです。
自由主義と保守主義の違いを踏まえるならば、「憲法とは何か」という問いの答えは明らかです。
憲法とは、人間の理性によって作られるものではなく、国民が長い年月をかけて育んできた伝統と共同体の知恵を未来へと継承するものです。
私たち日本人は、その原点に立ち返るべきです。
憲法を、国の記憶を未来へとつなぐ架け橋として再興するために。


