平和を誤解する人たち――傍観は中立ではない

平和を誤解する人たち――傍観は中立ではない

先日、テレビ番組で左派リベラルの田嶋陽子氏が、中国が着々と軍事力を強化し、東シナ海での軍事プレゼンスを拡大していることについて、「日本は過剰に反応し過ぎであり、なにもせず傍観していればいい」と述べていました。

一見すると「平和主義的」な言葉に聞こえるかもしれません。

しかし、構造を読む力をもたない発言ほど、現実から遠く、危ういものはない。

なぜなら、国際政治とは“善意の場”ではなく、“power structureの場”だからです。

常に申し上げているとおり、国際社会では、すべての国家が「秩序」をめぐる力の配置の中に存在しています。

中国が軍事力を拡張するのは、単なる威嚇ではなく、自国に有利な構造的秩序を形成しようとする行為です。

それに対して何もしないということは、power structureの中で能動的に位置を占めることを放棄し、他者の形成する秩序に従属することを意味します。

つまり、傍観は無抵抗ではなく、相手の構造的意志に自国を委ねるという“選択的従属”なのです。

そもそもpower structureの外に立つことなど不可能であり、平和を享受したければ、自国に有利なpower structureを形成するほかに道はありません。

秩序とは、力の均衡がつくり出す一時的安定にすぎないのです。

現に、平和を願った国々ほど、構造の変化を見誤り、戦火に巻き込まれました。

第一次大戦前のヨーロッパ諸国、満洲事変前の国際連盟、そして冷戦後のウクライナ――いずれも「相手は理性的に振る舞うだろう」という幻想が崩れた瞬間に、秩序は瓦解しました。

「何もしない」ことによって平和を得ようとする発想は、歴史的にも理論的にも成立したためしがありません。

繰り返しますが、国際政治は秩序を形成する力の体系によって支配されており、その中で行為を放棄する者は、必ず他者の秩序に従うことになります。

したがって、「傍観していればいい」という言葉は、無抵抗の美徳ではなく、従属の宣言に等しい。

平和を守るとは、戦うことではなく、power structureを読み、秩序を設計する力を持つこと。

それこそが、国家の知性であり、真の自由の条件です。