日本の戦後政治を語るうえで、避けて通れない存在があります。
それは「ジャパンハンドラー」です。
この言葉は、1989年に米国のジャーナリスト、ジェームズ・ファローズ氏が著書『日本封じ込め:強い日本VS.巻き返すアメリカ』の中で用いたものです。
本来の意味は「米国側で日本問題を専門に扱う人物」ですが、狭義には「対日経済強行主義者」、すなわち日本を経済的に従属させようとする戦略家たちを指します。
ジャパンハンドラーの存在を理解するためには、まず「覇権国の支配の仕組み」を歴史的に見直す必要があります。
古代ローマ帝国は、征服した属州の支配層の子弟をローマに留学させ、ローマ式教育を施したうえで新たな支配者として帰国させました。
これにより、ローマの価値観や統治理念を現地のエリート層に浸透させ、軍事力に頼らずとも秩序を維持できる体制を築いたのです。
ローマは、ハード・パワー(軍事力・経済力)とソフト・パワー(文化・教育・価値観)を融合させた「スマート・パワー」によって覇権を維持しました。
現代の覇権国である米国もまた同じ手法を採っています。
わが国は、大東亜戦争の敗北によってハード・パワーの主要部を成す軍事的主体性を喪失しました。
すなわち、占領憲法と敗戦国体制によって軍事的制約を受けた日本は、米国の軍事傘下に依存せざるを得なくなったわけです。
そのうえ米国は、ソフト・パワーの面でも、わが国の属米化を一段と進めました。
フルブライト奨学金などの制度を通じて日本のエリート層を米国に留学させ、米国流の価値観と思考方法を植え付けていきました。
いわば、日本のエリート層の「思考のOS」が、米国式に書き換えられていったのです。
ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、覇権国にとって「ソフト・パワー」が不可欠であると説きました。
ハリウッド映画やコカ・コーラ、マクドナルドなどに代表される文化の輸出は、単なる娯楽ではなく、米国的価値観の拡散手段でもあります。
教育、メディア、エンタメを通じて、アメリカは世界の認識枠組みそのものを形づくってきたのです。
地政学的な背景から、日本人は「災害死史観」をもっています。
すなわち、自然災害による死を宿命として受け入れ、紛争による死を忌避する文化的特性です。
これに対し、ユーラシア諸国は「紛争死史観」をもち、外敵との戦いを生存の一部とみなします。
こうした文化的差異が、日本の防衛意識を弱体化させ、結果として米国への依存を「文化的伝統」として定着させていったのです。
日本の内閣総理大臣は、法的には強大な権限を持っています。
しかし実際には、財務省、中国共産党、国内リベラル勢力、そして米国の意向という複数の「外的要素」によって制約されています。
その中でも最も大きな影響を与えているのが、米国側の「ジャパンハンドラー」たちです。
彼らは日本の外務官僚、防衛官僚、与党政治家などにカウンターパートを持ち、政策形成に深く関与しています。
たとえば2024年版アーミテージ・ナイ・レポートは、日米の統合的な同盟構築を提言しました。
そこでは、自衛隊の統合作戦司令部と米軍の指揮統制の連携、一元的情報分析機関の設立、経済安全保障協力、中東でのプレゼンス強化などが盛り込まれています。
これらの提言は、日本の防衛・外交方針を米国戦略に組み込むものであり、形式上は「協力」であっても、実態は「従属」と言わざるを得ません。
現在、日本は台湾有事を念頭に、射程2,000キロ級の長射程対艦ミサイルや国産トマホークの開発を進めています。
これらの動きも一見「自主防衛」のように見えますが、実際には米国の対中封じ込め戦略の一環である可能性が高いと考えられます。
すなわち、日本は「防衛」の名を借りた代理戦略の一部として、巧妙に組み込まれているのです。
ジャパンハンドラーは、単なる陰謀論ではありません。
むしろ、覇権構造の中で当然のように存在する「政策操作のシステム」なのです。
問題は、それを知っていながら沈黙している日本側の政治家・官僚・メディアです。
いまこそ私たちは、「誰が日本をハンドリングしているのか」を直視しなければなりません。
そして、いままさに高市新政権が誕生したこの時こそ、「ハンドラーにハンドルを握らせない政治」を、国民の手で取り戻すときなのです。


