食糧と水を失う国は存続できない

食糧と水を失う国は存続できない

私たちが「食糧安全保障」という言葉を耳にしたとき、現代日本に直結する課題だと考える方は少ないかもしれません。

しかし、歴史を振り返れば、食糧の確保こそが国家の命運を分けてきた事例に溢れています。

例えば、古代のペルシア帝国においても、帝国が周辺国に求めたのは「土地」と「水」でした。

これは単なる領土拡張の合言葉ではありません。

周辺国が土地と水を差し出すとは、穀物を生み出す基盤を差し出す、すなわち従属の意思表示に他ならなかったのです。

当然のことながら、土地と水がなければ穀物は育ちません。

穀物がなければ人々は生きていけず、食糧を握られるということは、国家存立そのものを握られるに等しいのです。

それにつけても、興味深いことにペルシアの支配は意外と緩やかでした。

征服地の統治は現地の君主やその一族に任されることも多く、「ただし土地と水はペルシアのものだ」という条件がつくだけでした。

穀物供給の基盤を確保すること、それが何よりも優先されたわけです。

ところが、ダレイオス1世の時代、マラトンの戦いでペルシア軍がギリシャに敗れると、その支配体制の脆弱さが一気に露呈し、エジプトやメソポタミアで反乱が相次いだのです。

現地の旧王族たちは「帝国が弱くなった」と見ればすぐに立ち上がります。

結局、帝国を結びつけていたのは軍事力だけではなく、「食糧を供給する力」そのものだったのです。

歴史家ヘロドトスの『歴史』を紐解けば、至るところに穀物をめぐる記述が現れます。

帝国の栄枯盛衰を決めたのは、戦場の勝敗だけでなく、土と水、すなわち穀物の確保にあったことがわかります。

では、現代の私たちはどうでしょうか。

国際的なサプライチェーンが当たり前の時代に暮らしていると、日常生活の背後にある「土地」と「水」の存在を忘れがちです。

しかし、もし海外からの食糧供給が途絶したら、我が国はどれほど自力で国民を養えるでしょうか。

ペルシア帝国の教訓は、時代を超えて私たちに問いかけています。

食糧の自給力を軽視する国家は、必ず外圧や混乱に揺さぶられます。

食糧安全保障は、国家安全保障の最も根源的な課題なのです。

同じように、現代の日本では水資源についても重大な課題があります。

例えば宮城県は、上工下水道施設の所有権を県に残すという建前をとりながらも、その長期(20年間)にわたる運営権を民間企業グループに譲渡してしまいました。

しかも、その運営の実務を担う中核企業は、フランスの外資系企業グループが過半数の議決権を持つ子会社です。

水道という住民の生命線である基礎インフラの実質的な経営判断と技術の中枢を、県民の監視が及びにくい外資の支配下に置くに等しいものです。

安全保障とは何か…

これを理解できぬ政治家が多すぎます。