リーダー不在は危機なのか

リーダー不在は危機なのか

「強いリーダーの不在」が、しばしば政治的危機の象徴として論じられることがあります。

ブルッキングス研究所のミレヤ・ソリス氏も、日本の現状を「欧米型ポピュリズム危機の後追い」と位置づけ、強力なリーダーの不在こそが危機の核心であると主張しています。

しかし、日本政治の現状を本当にそのように単純化して説明できるのでしょうか。

確かに、実質賃金の低下にともなう生活費の上昇と格差の拡大、政治資金をめぐる不祥事、少数与党化、新興政党の台頭など、不安定要素は少なくありません。

ですが、それをただ「リーダー不在=政治の危機」と結びつけるのは、一面的な見方にすぎるのではないでしょうか。

日本の政治が抱える危機の実相を、欧米型ポピュリズムの模倣としてではなく、都市と農村、若者と高齢者、制度的安定と改革停滞といった複層的要因の絡み合いとして捉えることが必要であると考えます。

たとえば、わが国の場合、欧米の二大政党制とは異なり、「自民党一強」と「分裂を繰り返す野党」という非対称な構造を持っています。

このため、政権交代によって政治秩序が大きく揺れることは少ない反面、与党に代わる受け皿が形成されにくいという問題も抱えています。

仮に「強いリーダー」が登場しても、その背後にある制度的な非対称性が変わらない限り、危機は解決しない。

あるいは、日本社会の分断は、右派と左派という単純な対立でもありません。

都市と農村、若者と高齢者といった複数の断層が交錯しています。

都市部では物価上昇、消費税、格差問題等が大きな争点となる一方、農村部では、とりわけ米価政策や公共投資が死活問題となります。

また、高齢層は投票率が高く既存政党を支持しがちですが、若年層はSNSを通じて新興政党に共感しやすい傾向があります。

このように、日本の政治的分裂は多層的であり、単一のポピュリズム軸では捉えきれません。

補足すると、日本では「大衆迎合」などと誤訳されている「ポピュリズム」ですが、そもそも言葉の意味は、劣化したエリーティズムに対する庶民の反乱という意味であって、しごく真っ当な政治運動を指します。

ここでは便宜上、『ポピュリズム』を誤訳的な一般用法に従って用いています。

良し悪しはべつにして、戦後日本の政治制度は、占領憲法と官僚主導の下で一定の秩序を維持してきました。

そのため、急進的な制度改革は進みにくく、「大きくは変わらない」という安定性が保たれています。

これは一面では強みですが、同時に「停滞」を生み出す要因にもなります。

日本政治の危機は、体制崩壊というよりも、むしろ制度的安定と惰性が絡み合う「停滞の危機」として現れるのです。

外交・安全保障政策は、与野党を超えて対米追随を軸に一貫性を保ってきましたが、前述のとおり国内では生活費の上昇や社会保障への不安が増し、政治不信が高まっています。

この「外交の安定」と「国内の不満」の乖離が、日本政治を漂流させる大きな要因ともなっています。

興味深いことに、ソリス氏は安倍政権期の安定を「強力なリーダーシップ」に帰しています。

しかし、リーダーの強権化は説明責任の欠如や腐敗の温床にもなりうることを忘れてはなりません。

日本政治に必要なのは、一人の強力なリーダーではなく、分散した権力を調整する新しい仕組みです。

その第一歩は、日本社会を歪めてきた思想(ネオリベラリズム)や改革(構造改革)を見直すことにあるでしょう。

それこそが保守政治の真骨頂です。

結論として、日本政治の危機は、欧米型ポピュリズムの模倣ではありません。

都市と農村、若者と高齢者、制度的安定と改革停滞、これら複層的な要因が絡み合うことで、日本独自の「停滞の危機」が生まれているのです。

したがって必要なのは、「強いリーダーの出現」を待望することではなく、この複雑な分断を調整し、先人たちが継承してきた伝統を守りつつ、次の時代にふさわしい制度を構築していくための現実的かつ漸進的な政治改革なのです。