秋のお彼岸が近づいて参りました。
春分の日・秋分の日は、もともと皇室の祭祀である春季皇霊祭・秋季皇霊祭の日に由来しています。
これは、歴代天皇や皇族の霊を祭る儀式で、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のうち、特に皇霊殿で執り行われ、両日ともに国民の祝日とされてきました。
敗戦後、例によってGHQは「皇室祭祀を由来とする祝日は廃止すべきだ」と指摘しました。
しかし、日本政府は祝日法の制定に際して、春分の日・秋分の日を「自然をたたえる日」と「祖先をうやまい、亡くなった人々をしのぶ日」と表現を改めることで、祝日として残すことに成功しました。
春分の日も秋分の日も、ともに昼と夜の長さが一致する日であり、生者と死者の境界に位置する日とされてきました。
ゆえに、これらの日の前後3日間を含め、先祖を供養し偲ぶ「お彼岸」とされてきたわけです。
お彼岸やお盆のように「もし先祖や歴史上の人物と会えるなら」と考えたとき、私は歴史上の人物の中では、尊敬する織田信長に会ってみたいと思うのです。
とはいえ、仮に織田信長に会えたとて、「はたして現代日本語により言葉は通じるのか」という疑問を常々もっておりました。
言語学の研究によれば、私たちが使う現代日本語での日常会話が、かろうじて通用し得るのは戦国時代ごろからだとされています。
奈良や平安の人々、たとえば聖徳太子や『枕草子』の時代の人々とは、現代語での会話はほとんど成立しません。
しかし、戦国時代になると織田信長や豊臣秀吉となら、多少の古風な表現に戸惑いながらも会話が成立する水準に達していたと考えられています。
つまり、日本語は16世紀にはすでに現代語に直結する段階に入っていたわけです。
一方、朝鮮語はどうでしょうか。
新羅や高麗の人々の言葉は現代韓国人や北朝鮮人には通じませんが、李氏朝鮮後期、すなわち17世紀以降になると現代語に通じる水準に到達し、ある程度の会話が可能になっていきました。
こうして比較すると、日本語は朝鮮語よりも半世紀から1世紀ほど早く現代語に通じる水準に達していたと言えそうです。
自国の歴史を自国語で『歴史書』(『古事記』など)に記せるようになった点では、日本語と朝鮮語の間におよそ900年もの差が生じたといえるでしょう。
では、なぜ日本ではこれほど早く国語の成熟が進んだのでしょうか。
その背景には二つの大きな要素がありました。
一つは、外来の文化を取り入れつつ自国化する「和魂洋才」の精神です。
日本は律令制度や仏教など中国文明を積極的に導入しましたが、それをそのまま模倣するのではなく、大和の伝統や神話と融合させて独自のものにしました。
『古事記』(712)はまさにその結晶であり、形式は漢字でありながら内容は大和言葉を忠実に表記し、日本の神話と歴史を自国語で描き出しました。
もう一つは、統一王朝の成立様式です。
日本の大和政権は、武力で豪族を強制的に従えたというより、天皇の祭祀権を基盤に神話体系に組み込むかたちで統合を進めました。
この「祭祀による統一」が、王権の正統性を神話と歴史の物語として示す必然性を生み出し、それが『古事記』や『日本書紀』の編纂へと結びついたのです。
これに対して朝鮮半島は異なる道を歩みました。
三国時代を経て7世紀に新羅が唐の援助で武力統一を果たしましたが、正統性は常に中国王朝の承認に依存しました。
国史編纂も中国の正史スタイルに倣うことが不可欠で、高麗時代の『三国史記』(1145)はその典型です。
朝鮮語そのものは口語として存在していたものの、記録言語は漢文に支配され、自国語で歴史を記す必然性は弱かったのです。
さらに、朝鮮語は漢字と構造が大きく異なるため、吏読や郷札といった表記法は工夫されても複雑すぎて普及せず、歴史叙述には不向きでした。
15世紀に世宗大王が訓民正音(ハングル)を創製して初めて朝鮮語を正確に表記する基盤が整いましたが、知識人層は長く漢文を正統と考え、ハングルは庶民や女性の文字とされました。
自国語で歴史を書ける水準に達したのは17世紀以降のことです。
こうした事情を比較すると、日本は和魂洋才の精神と祭祀による統一を基盤に、早くも8世紀に国語による歴史叙述を実現しました。
一方、朝鮮半島は冊封体制と漢文正統主義に縛られ、自国語で歴史を書けるようになるまでに、より長い時間を要しました。
『古事記』の存在は、単なる神話や歴史の書ではなく、日本という国がいかに早い段階で自国語を「国の物語」の器として育てたかを示す証しにほかなりません。
その伝統を私たちはいまも継承しており、季節の節目や祖先を敬う心に宿る言葉の力が、未来の日本を形づくっていくのではないでしょうか。