正金主義と信用貨幣論のせめぎ合い

正金主義と信用貨幣論のせめぎ合い

明治維新後、我が国は近代国家としての歩みをはじめました。

その際、政治制度の整備と並んで極めて重要であったのが通貨制度の確立でした。

横浜正金銀行の設立とその機能は、日本が国際金融の仕組みにどのように組み込まれたのかを示す象徴的な事例であり、また日本における通貨論争の系譜を考えるうえで欠かすことのできない論点を含んでいます。

横浜正金銀行は1880年に設立され、国際貿易の決済を担う特殊銀行として位置づけられました。

輸入業者が円貨で代金を支払うと、同行はそれを金貨や銀貨に換えて海外に送り出し、ロンドン市場でポンドに替えて外国の輸出業者に支払いました。

この仕組みにより日本の正金は大量に海外に流出することとなったのです。

一部の論者によれば、これを「英国に吸い上げられた」と表現していますが、実際には近代工業において後進国であった日本が輸入超過に陥らざるを得なかったことが原因であり、必然的な国際収支構造の結果であったと理解すべきです。

さて、19世紀のイギリスでは「地金論争」と「通貨論争」という貨幣に関わる二つの論争がありました。

ナポレオン戦争下で金兌換が停止されると、紙幣の発行量増加による物価上昇と為替下落が問題となり、銀行券の裏付けを金に求めるべきか否かが問われました。

それが地金論争です。

さらには、銀行券の発行を金準備に機械的に連動させるべきか(通貨学派)、あるいは商業取引の需要に委ね銀行に金の準備量に関わりなく預金通貨を発行させるべきか(銀行学派)、という通貨論争がありました。

最終的には通貨学派が優位となり、イギリスは金本位制を確立し、ロンドンは世界金融の中心地としての地位を確立しました。

だが、金本位体制では、経済成長に伴う通貨供給量に限界が生じるため、しばしば経済が行き詰まる局面を招いたのです。

一方、日本においても、通貨をめぐる思想的対立は繰り返されました。

江戸時代には勘定奉行荻原重秀が貨幣改鋳を行い流通拡大を図ったのに対し、新井白石は貨幣の品位を回復させるなど通貨の信用を重視しました。

明治政府発足直後には、大蔵卿(後の大蔵大臣)であった由利公正が太政官札などの不換紙幣を大量に発行し、維新財政を賄いました。

その後に大蔵卿に就任した井上馨や松方正義は金本位制を志向し、厳格な正金主義を断行します。

その結果、通貨供給が著しく制約され、いわゆる松方デフレと呼ばれる深刻な不況を招くこととなりました。

物価は急落し、中小農民や零細商工業者は多くが破産に追い込まれ、農村からは大量の困窮農民が都市へと流出しました。

いわば国民生活を犠牲にして維持された正金主義であったのです。

昭和期に至ると高橋是清が金本位制を停止し、信用貨幣を積極的に利用して国債の日銀引受けを通じた景気回復を実現します。

戦後には、池田内閣のもとで政策指南を行った下村治が投資主導の成長理論を提示し、信用貨幣を基盤とする高度経済成長を理論的に支えました。

横浜正金銀行はGHQの占領政策のもとで改組され、1947年には東京銀行として再出発し、外国為替を専門に担いました。

その後、1996年に三菱銀行と合併して東京三菱銀行となり、2006年にはUFJ銀行と統合して三菱東京UFJ銀行を経て、現在の三菱UFJ銀行へと発展しています。

すなわち横浜正金銀行は単に消滅したのではなく、その系譜は現代にまで脈々と受け継がれてきました。

かつて横浜正金銀行が金貨や銀貨を実際に海外へ運んで決済していた役割は、いまや三菱UFJ銀行が電子的な国際決済システムを通じて担っています。

横浜正金銀行は、日本を国際金融システム(金本位制)に結びつけた制度的装置であり、正金流出を通じて「信用貨幣 vs 正金主義」という論争を現実化させ、さらにその役割は現代の国際決済システムにまで継承されているという三重の理由から、象徴的事例であり、日本通貨論争史を考える上で不可欠な存在なのです。

ご承知のとおり、今日においても通貨論争は続いています。

財務省主導の緊縮財政派と、信用貨幣の理解を基盤とする積極財政派との対立がそれです。

前者は信用貨幣の本質を十分に理解せず、一貫して財政収支の均衡を絶対視しますが、後者は国家の経済成長や国民生活の安定を優先し、信用貨幣の本質を踏まえた財政運営を求めています。

この対立は新井白石と荻原重秀、松方正義と由利公正、正金主義者と高橋是清のせめぎ合いと軌を一にするものであり、日本は今もなお「通貨論争」のただ中にあるのです。