平和教育の幻想と占領憲法

平和教育の幻想と占領憲法

今年は戦後80年の節目にあたり、全国各地で多様な「平和記念行事」が開催されています。

今週(8月28日)の木曜日には、お隣の大田区(六郷)において恒例の花火大会が「平和をつどう」と題して開催されます。

しかしながら、戦後、日本の自治体が推進してきた平和事業や平和教育は、「自らが戦争の意思を放棄すれば戦争は起こらない」という現実を無視した平和観を国民に植え付けてきました。

自ら戦う意思がなくとも、相手がその気になれば防衛のために戦わざるを得ないのが歴史の現実です。

84年前の対米戦争も同様で、我が国は追い込まれ開戦せざるを得なかったのです。

つまり、意思の有無にかかわらず「戦争に追い込まれる」事態は常に起こり得るのです。

ましてや、憲法に「病気を放棄する」と書いたところで、この世から病が根絶されるわけでもありません。

ところが、我が国では戦後80年間にわたり、非現実的な理想主義に基づく偏った「平和教育」が続けられてきました。

その教育の結果として、平和憲法の名の占領憲法を一字一句変えないという姿勢が徹底されました。

既にご承知のとおり、現行憲法(占領憲法)は日本人自身が主体的に制定したものではありません。

その制定過程は以下のとおりです。

昭和21年2月13日午前10時、マッカーサー元帥の名代としてホイットニー准将らGHQ幹部が吉田茂外相公邸を訪れ、新憲法制定のための秘密交渉が行われました。

そのとき、松本烝治が提出していた草案は即座に退けられ、代わってGHQ独自の草案が提示されたのです。

いわゆるマッカーサー草案には既に「戦争放棄」の条文が盛り込まれており、押し付け憲法であったことは明白でした。

ちなみにGHQ草案は世界に5通しか存在せず、そのうちの1通を吉田茂が事前に受け取っていたことが判明しています。

彼は驚いたふりをしていましたが、実際にはGHQと通じていたことが明らかです。

秘密会談では「この草案を受け入れなければ天皇を戦犯として裁く」との脅しまで突きつけられ、日本には拒否の余地がありませんでした。

こうしてわずか70分間の会談で、戦後日本の運命は決定づけられました。

占領憲法は日本政府が提案した体裁を取りながらも、その中身はほぼGHQ草案のまま制定されました。

にもかかわらず戦後日本では、「護憲」か「改憲」か、という議論だけが繰り返され、残念ながら「占領憲法の効力論」にまでは及びませんでした。

これは、敗戦利得を享受した政党が与野党を問わず長く国政を支配してきた結果です。

単なる改憲では、かえって占領憲法の正当性を認めることとなり、日本を長期にわたり属米国家に縛り付けることになります。

米国が憲法9条に「軍隊」「戦争」「交戦権」の放棄を盛り込ませたのは、日本が米国に歯向かえないようにするためであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

その占領憲法に基づく歪んだ「平和」を唱え続けてきたツケが、いままさに顕在化しています。

国際政治の不確実性が高まる中、日本は主体性をもって外交的・軍事的に対処できるのでしょうか。

攻撃されれば終わり、米国が助けてくれなければ立ち行かないという他力本願の姿勢では独立国家の資格はなく、真の平和を享受することなどできません。

したがって、我が国がなすべきことは明白です。

「占領憲法の無効宣言」を国会で決議し、明治憲法の復元を確認したうえで、真に自主的な憲法を制定することです。

そのとき初めて、日本は真の独立国家としての歩みを取り戻すことができます。