大東亜戦争で敗れた我が国は、その後、米国に深く寄り添い、確かに経済的な繁栄を手にしました。
高度経済成長の恩恵を受け、多くの国民が豊かさを享受しました。
では、その裏で私たちは何を失ったのでしょうか。
数千年にわたって受け継がれてきた歴史や文化を顧みず、魂を売り渡してしまったのではないでしょうか。
敗戦の現実は、いまなお私たちの目の前に横たわっています。
米国は同盟国という名のもとに我が国を極東の砦と見なし、約70もの米軍基地を抱え込ませています。
そして敗戦利得者史観に基づく平和教育により、武器を取ることすらできない国家にされてきました。
その結果、多くの日本国民には「属国」という感覚すらありません。
私たちが暮らす社会は、先人たちの血のにじむ努力と凄まじい戦いのうえに成り立っています。
その基盤があってこそ、今日の繁栄があります。
しかし、私たちは本当にその歴史を知っているでしょうか。
他国を侵略せず、戦争とは無縁であった日本が、なぜ明治以降およそ80年もの間、戦争を余儀なくされる国へと変貌したのか。
もちろん、それは我が国が自ら選び取った道ではありません。
維新後、帝国主義世界に引き込まれた我が国は、日清・日露戦争に勝利したものの、白人列強の脅威と策略にさらされ、真珠湾攻撃を経て日米大戦へと突き進むことになったのです。
毎年8月15日が近づくと、戦争の反省や悲惨さを訴える番組が放送されます。
今年は戦後80年という節目にあたるため、例年にも増してその傾向は強まるはずです。
しかし、戦争の悲惨さだけを語ることは、真の検証にも反省にもなりません。
軍事を理解しようとしない者が平和を語ることは、病や医療の知識を持たない者が「病気のない世界」を唱えるようなものです。
戦争を評価するには、その目的と効果を冷静に見極めなければなりません。
戦争には、思想的優位を求める宗教戦争や思想戦争、そして経済的利益を追求する経済戦争があります。
現代では特に、エネルギー資源をめぐる争いが重要な位置を占めており、大東亜戦争もまた、思想戦争であると同時にエネルギー戦争でもあったのです。
なぜ日本は戦争をせざるを得なかったのか。
なぜ敗北を喫したのか。
そしてなぜ、今なお敗戦利得者たちが政治の中枢を支配し続けているのか。
これらの本質に向き合わなければ、真の平和は訪れません。
歴史の検証とは、単なる懺悔ではなく、過去の選択とその帰結を直視し、未来を切り拓く覚悟を伴う行為でなければなりません。