8月15日が近づくたびに、改めて「戦後日本」の在り方が問われます。
その核心にあるのが、現在の憲法、すなわち占領憲法の正統性とその効力をめぐる問題です。
この問題は、本来ならば我が国の将来を左右する最も根源的かつ重大な論点であるにもかかわらず、これまで国政においてほとんど真剣に議論されてきませんでした。
その怠慢の帰結として、我が国は今日なお「占領下の思考」から脱却できず、主権国家としての自覚と誇りを喪失したまま、属国的精神構造に甘んじているのではないでしょうか。
この閉塞を打破するためには、まずもって各政党が占領憲法に対して誠実な姿勢で向き合い、公開の場で議論を深めていくことが不可欠です。
そこで本稿では、私たち国民が各政党に問うべき基本的かつ根源的な疑問をいくつか提起したいと思います。
そもそも、自衛隊は軍隊ではないのでしょうか。
軍隊とは、近代戦争を遂行するための物的装備と人的組織を備えた存在です。
自衛隊はまさにその条件をすべて満たしており、国際的にも“Japanese Army”と認識されています。
それにもかかわらず、「自衛隊だから軍隊ではない」という主張がまかり通っている現状は、いわば「ラーメン大学は大学ではない」と言い張るような詭弁でしかありません。
この論理に従えば、占領憲法が現行の最高法規である限り、その憲法が戦力の保持を禁じている以上、自衛隊は明らかに違憲ということになります。
そして、その違憲の存在を半世紀以上にわたり容認してきた政権もまた、違憲状態を放置した政権であるということです。
さらに問題なのは、占領憲法にはアメリカ独立宣言のような「抵抗権」が規定されていないことです。
アメリカ独立宣言には、政府が暴政に堕した場合、人民がそれに抵抗するのは権利であるだけでなく義務でもあると明記されています。
しかし、占領下で制定された日本国憲法にそのような規定は一切ありません。
なぜでしょうか。
それは、もし国民に抵抗権を認めれば、それは即ちGHQ占領統治に対して武力を含む反抗を正当化することになり、占領政策そのものと矛盾するからです。
つまり、抵抗権を認めることは占領統治を否定することに他ならず、当然のように排除されたのです。
そして、抵抗権が存在しない憲法のもとで、「自衛権は自然権である」などと主張することには無理があります。
抵抗権も含めての自衛権であるはずなのに、その基盤たる抵抗権が否定されているのならば、自衛権の自然権的性格も論理的に導くことはできません。
この点について、誰も有効な反論を示せていないのが現状です。
占領憲法第9条は「戦争の放棄」と「戦力の不保持」を掲げ、国家の戦争権限(war power)を明確に否定しています。
このような規範のもとで、なぜ日本が日米安保条約に基づく軍事的枠組みに組み込まれ、集団的自衛権を一部容認するような政策を進めているのか、全く説明がつきません。
仮に、占領憲法が自衛権を容認すると解釈したとしても、それはあくまで「個別的自衛権」に限定されるはずです。
たしかに、「占領憲法は集団安保への参加を否定も肯定もしていない」という解釈も成り立つのですが、それは「現行法制化でも可能だ」とするための苦しい言い訳でしかありません。
にもかかわらず、現政権は集団的自衛権までをも合憲とする法制を整備しました。
これは明らかに憲法と矛盾し、憲政秩序の根幹を揺るがす暴挙と言わざるを得ません。
しかも、我が国の最高裁判所は、こうした矛盾について合憲性の判断を避け続けています。
なぜなら、最高裁そのものが占領憲法に基づき設置された統治機関であり、憲法を超える条約(たとえば日米安保条約や国連憲章)との整合性について判断する権限を持たないからです。
そのため、「統治行為論」という名のもとに、判断を回避し続けているのです。
一部には、「条約は憲法98条により憲法に優越する」として、憲法と条約の矛盾は存在しないと主張する向きもあります。
しかし、それは憲法が条約によって事実上「改憲」されたと認めるに等しく、明らかに立憲主義に反します。憲法を最高法規とするならば、条約によって憲法の内容が変更されることなど、断じて認められるはずがありません。
結局のところ、現行憲法を至高の法規範とする限り、自衛隊は違憲であり、日米安保体制もまた違憲であり、それを容認し続けてきた歴代政権も違憲の政権であったということになります。
そして、安保法制によって限定的にとはいえ集団的自衛権が導入されたことで、違憲状態はさらに深まりました。
法理上の破綻を抱えたまま『立憲主義』を標榜することの欺瞞を、そろそろ終わらせるべきです。
「占領憲法は正統な憲法である」と主張する以上、この法的・論理的な齟齬に答える責任があるはずです。
思考停止を続けるのか、それとも真正面から問いに向き合うのか。
私たち国民は、主権者として各政党に対し、この問いを突きつけていかねばなりません。
憲法とは、単なる理念の集合ではなく、国家の骨格であり、国民の誇りそのものなのです。
いまこそ、占領体制の残滓を払拭し、自主憲法による真の独立国家を目指すときではないでしょうか。