戦略なき拡張は亡国への道

戦略なき拡張は亡国への道

2010年代以降、我が国の防衛政策において「動的防衛力」という言葉が盛んに使われるようになりました。

とりわけ民主党政権時代(野田内閣時代)の防衛大綱(いわゆる22大綱)では、戦車や火砲といった地上兵器の削減と、ミサイル防衛体制の強化が打ち出され、それを「静から動へ」と称し、大規模な方針転換が断行されました。

しかし私は当初より、この「動的防衛力」という概念に強い違和感を抱いていました。

たとえば迎撃ミサイルによる本土防衛という構想には、そもそも技術的・戦術的な限界が存在します。

敵の弾道ミサイルが秒速4〜5キロで飛来するのに対し、我が方の迎撃ミサイルは発射から上昇、誘導に至るまでには数十秒から数分を要します。

その間に敵ミサイルは目標上空へと達し、実際には迎撃可能な範囲はきわめて限定されるのが現実です。

そうした制約を無視し、「戦車を減らし、迎撃ミサイルを増やしたから動的防衛だ」とする説明には納得できませんでした。

こうしたスローガン先行の政策転換は、過去の積み重ねを顧みない拙速な判断だったと考えます。

実際、昭和51年から平成16年までの約30年間、我が国の防衛政策の中核を担っていたのは「基盤的防衛力構想」でした。

この構想は、特定の仮想敵を定めず、平時は最小限の防衛力を保持し、あらゆる事態に備え得る柔軟性を保つという、極めて現実的かつ抑制的な安全保障理念に支えられていました。

当時の国際環境はデタント(緊張緩和)の時代であり、政府は「当面戦争の可能性は低いが、万が一に備え、今はその基盤だけ整えておこう」と説明していました。

これにより防衛費の過度な膨張には歯止めがかかり、日本は「平和国家」としての信頼を国際社会で築いてきたのです。

ところが平成16年の16大綱を境に、「基盤的防衛力」という言葉は政策文書から姿を消し、代わって「脅威対抗論」にもとづく軍備構想が前面に押し出されるようになりました。

脅威対抗論とは、特定の国家を仮想敵と想定し、その軍事的脅威を上回る兵力を整備するという発想です。

一見合理的にも思えますが、歴史的には極めて危うい構想です。

戦前の陸軍はソ連を仮想敵国とし、一方の海軍は米国を仮想敵国とし、陸海でバラバラな戦略を構想し常に統合がとれず、それぞれが脅威対抗論に基づいて軍備力を増強(五十個師団・八八艦隊)していったのです。

さて、そもそも軍事とは外交の背景として存在しており、軍事なき外交はあり得ません。

そして外交を支える基盤として重要なのが、「仮想敵を定めない」抑制的な防衛力、すなわち基盤的防衛力です。

脅威対抗論とは本来、戦時の軍事運用計画(戦略・作戦の遂行)のためのものであり、防衛力整備のための理論ではありません。

それを軍備拡張の根拠とするのは、大きな誤りです。

私は、戦前の事例からも、脅威対抗論に基づく平時の防衛力整備には賛成できません。

たしかに、北朝鮮のように核ミサイルや特殊部隊、サイバー攻撃など非対称的脅威を用いてくる国家に対しては、限定的かつ的確な「対抗的備え」は必要でしょう。

難民対処やテロ対応、サイバー防衛といった局地的脅威に対しては、法制度と実働力の整備を早急に進める必要があります。

一方で、通常戦力を背景とする大国、すなわち中国・ロシア・米国のような国々に対しては、いたずらに仮想敵視するのではなく、「基盤的防衛力」によって均衡と抑止のバランスを保つ姿勢が、現実的かつ賢明な対応であると考えます。

ただし、現下の中国に関しては、尖閣諸島に対する度重なる領海侵入や挑発行為に照らして、すでに「平時」とは言い難い状況にあり、有事への備えとして一定の実力行使オプションを視野に入れる段階にあるとも言えるでしょう。

そして、この「基盤的防衛力」を支える柱の一つが、「民防(シビル・ディフェンス)」であることも忘れてはなりません。

現在、我が国には十分な防空シェルターが整備されておらず、避難体制や住民訓練の充実も道半ばです。

いかに高度な兵器体系を整えたとしても、国民の命を守る備えを欠いていては、防衛国家としての本質を問われることになります。

こうした視座に立って私は、「戦略なき拡張」ではなく、「戦略に基づく抑制と準備」が真の国防であると確信します。

過日の参議院議員選挙の東京選挙区において初当選した参政党の女性議員が、過去に「核武装が一番安上がりだ」という発言をしていたことが物議を醸し出しています。

ちなみに私は、お花畑主義的な、いわゆる核兵器廃絶論者ではありません。

なぜなら、仮に核兵器を廃絶できたとしても、核兵器を製造する技術を廃絶することはできない以上、「核のない世界」など夢のまた夢です。

その意味では、国家の生存と主権を守るため、必要であれば核兵器の保有も辞さないという現実主義的な立場に立っていますが、ただしそれはあくまで戦略的・技術的・外交的条件が整い、国民的合意が醸成されたうえでの「最後の手段」としてです。

とはいえ、現実に即して考えれば、たとえば韓国が独自の核武装に踏み切った場合、日本国内でも核武装を求める世論が高まり、米国がこれを黙認または容認する可能性も否定できません。

そのような状況に備え、「核武装のロードマップ」だけは密かに検討しておくべきだと考えています。

それは決して好戦的な態度ではなく、国家として当然の備えです。

そして忘れてはならないのは、核武装とは「脅威対抗論」に基づく防衛力整備の最たるものであるという点です。

すなわち、特定の仮想敵の脅威を前提に、その上を行く抑止力として核兵器を整備するという構図そのものが、まさに脅威対抗論の体現に他なりません。

だからこそ、私は核武装を論じることと同時に、その裏にある戦略思想、すなわち「脅威対抗型国家安全保障」のリスクについても常に意識しておく必要があると考えています。

仮想敵の想定 → それに勝る兵力整備 → 地域の緊張増大、という安全保障のジレンマ、悪循環に陥ってはならないのです。

現時点での現実的対応策としては、核弾頭・非核弾頭両用の中距離ミサイルを整備し、敵基地反撃能力の一環として保持することが有力な選択肢です。

これは、過度な刺激を避けつつ、一定の抑止効果と戦略的柔軟性を確保する現実的な構えです。

なお、欧州のNATO諸国が採用している「核シェアリング」について、日本への導入を唱える声も一部にありますが、私はこれに懐疑的です。

あれは冷戦期に、ソ連の大戦車軍団に対抗する目的で米軍の戦術核を西ドイツ、イタリア、ベルギーなどに対し、戦闘機ごと貸与する制度として始まったものです。

弾薬庫の鍵は「ダブルキー方式」で、実際の発射権限は米国が握ったままでした。

このような制度を今の日本が模倣したとしても、それは抑止力とは言えません。

核武装を「国際戦略の最終的手段」として捉えるならば、その議論には国家哲学、外交信義、戦略的整合性すべてが求められます。

勇ましい言葉ではなく、冷静な準備こそが必要です。

私は、今こそ「基盤的防衛力構想」に立ち返り、必要な備えを怠ることなく、しかし決して脅威対抗論の罠に陥らぬよう、冷静で戦略的な国家安全保障を築かねばならないと確信します。