もしも山口多聞だったなら…

もしも山口多聞だったなら…

大東亜戦争の分水嶺となったミッドウェー島の攻略作戦は、連合艦隊の総力をあげて決行されたものです。

帝国海軍は艦隊を5つに分けました。

まず、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を中心とする南雲忠一中将が率いる機動部隊、次いでミッドウェー島を上陸占領するための陸兵を乗せた船団を護衛する戦艦「金剛」「比叡」を主力とする近衛信竹中将の攻略部隊、次いで重巡洋艦により編成された栗田健男中将の支援部隊、そして山本五十六長官が率いる戦艦「大和」「長門」「陸奥」など最強の戦艦主力部隊のほか、空母「隼鷹」など陽動作戦としてアリューシャン諸島方面を攻撃するための北方部隊といった具合です。

作戦決行の三日後となる6月7日、先鋒としてミッドウェー島近海に到達したのは南雲機動部隊です。

この南雲がやらかしてくれたのは周知のとおりです。

ミッドウェー島近海に到達した南雲はすぐに攻撃機を発艦させ、島の飛行場を急襲します。

しかし残念ながら滑走路を完全に破壊することはできず、南雲のもとに「再攻撃の要あり…」との報告が入りました。

悲劇はここからはじまったのです。

「再攻撃の要あり…」の報告を受けた南雲は島への再攻撃を行うため、敵攻撃部隊出現に備えて甲板上で雷装待機していた艦上攻撃機に対し、爆弾への兵装転換を命じました。

爆弾への兵装転換が進んだところで、突如「敵空母発見!」の報告が入ります。

あとでわかったことですが、このときの偵察機の索敵もまた実にいい加減なものでした。

急に出てきた敵空母部隊を攻撃するため、南雲は再び爆装から雷装への転換を命じたのですが、この命令が決定的となりました。

このとき、空母「飛龍」の司令官・山口多聞少将は「そんな時間はない。兵装転換をせず直ぐにでも発艦させるべきです」と南雲に進言したのですが、南雲は却下。

これにより、各空母の甲板上は、爆弾や魚雷が散乱し作業員らがごったかえす危険な状況になりました。

そこに、敵機動部隊から発艦した艦載機が襲いかかってきたのです。

急降下爆撃機の爆弾が、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」に次々と被弾。

甲板上に散乱していた魚雷や爆弾が誘爆し、たちまちのうちに大炎上となり、戦闘能力は完全に失われ、ただ沈没を待つだけの状態となってしまったのです。

唯一、沈まなかったのは直ちに攻撃機を発艦させた山口多聞の空母「飛龍」で、敵空母「ヨークタウン」に3発の爆弾を命中させ、さらに第二次攻撃隊が2発の魚雷を命中させ大破させています。

とはいえ、中型空母1隻でできる攻撃はこれが限界でした。

米国の空母2隻の攻撃隊が「飛龍」に殺到し、飛行甲板に4発の爆弾が命中して、ついに飛龍も山口多聞とともに沈みます。

4隻の主力空母、300機以上の戦闘機、300人以上の優秀な飛行機乗りたちを失っては、ミッドウェー作戦を中止せざるを得ませんでした。

偵察機から「敵空母発見!」の報告が入ったとき、山口多聞の進言のとおり、再度の兵装転換を行わず直ちに全機を発艦させていれば、このような事態には至らなかったはずです。

発艦後に敵機が襲いかかってきたとして、百戦錬磨の零戦がすべて撃ち落としてくれるのですから。

歴史に「If」は禁物と言うけれど、「If」がなければ洞察できない。

もしも機動部隊の司令官が南雲ではなく山口多聞であったなら…

南雲の海軍兵学校の卒業年度がたった1年だけ山口多聞よりも上だっただけで、こうした馬鹿げた人事が行われるほどに当時の日本軍の組織は官僚化していたのです。

それに、戦場に連合艦隊司令長官たる山本五十六がいなかったことも痛恨の極みです。

山本五十六は、南雲空母部隊のはるか500マイル後方を航行する戦艦「大和」の中で将棋を指していたのです。

そもそも戦艦「大和」が南雲機動部隊と一緒にいれば、兵装転換の必要もなかったはずです。

なぜなら、ミッドウェー島の要塞砲の射程距離よりも、大和の主砲の射程距離のほうが長かったからです。

よって「島への再攻撃の要あり…」の報告があったとき、戦艦「大和」から砲撃を加えていればよく、空母艦載機に再度の兵装転換を命じる必要はありません。

山本五十六といえば「もはや大艦巨砲主義の時代は終わった」と言って、世界ではじめて空母機動部隊による航空攻撃を立案・運用した人物です。

その山本五十六は、皮肉にも戦艦「大和」に魅了されて大和の中に籠もりっきりで、大戦中、一度として戦場で陣頭指揮をとったことがありません。

常に前線に立って指揮をとっていた東郷平八郎とは大違いです。

この敗北以降、戦況は坂を転げ落ちるようにして悪化していきました。

ミッドウェーの敗北は教訓の宝庫です。