桂・ハリマン協定が破棄されていなければ…

桂・ハリマン協定が破棄されていなければ…

私は、一人の政治家が大切な歴史の節目で亡国の種を植え付けてしまった事例を知っています。

その政治家の名は日露戦争の講和条約を仲介した小村寿太郎です。

小村寿太郎はもともと外交官でしたが、外務大臣や貴族院議員などを歴任しましたので政治家でもあります。

彼が植え付けてしまった亡国の種とは、「桂・ハリマン協定」を破棄させたことです。

もしも「桂・ハリマン協定」が小村寿太郎によって破棄されていなかったとしたら、その後の日米戦争はなかったかもしれないのでございます。

歴史に「If」は禁物ですが、「If」がなければ洞察できない。

「桂・ハリマン協定」とは、日本の首相である桂太郎とユダヤ人鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンとの間で結ばれた協定です。

ハリマンは日露戦争に勝利した日本に対し、「日本に1億円を出資したい…」「満洲で一緒に鉄道開発をしないか…」と提案してきました。

当時の1億円といえば、現在の貨幣価値に換算すると約40兆円になりますので、実に驚くようなオファーです。

ロシアに勝利した日本は、満洲にある鉄道利権を手に入れました。

すなわち、その鉄道開発を日米で協力して開発しようじゃないか…ということです。

満洲は日本の生命線とも呼ばれ、あるいはカネのなる木とも呼ばれ、当時の日本としてはなんとしてでも手に入れたかった土地でした。

しかし、それは諸外国にとっても同じことで、ようやくロシアの手を離れた満洲の利権を大国が見逃すはずはありませんでした。

そこで、ユダヤ人鉄道王のハリマンが真っ先に名乗りを上げたわけです。

大国ロシアとの戦争で資金が底をつき、鉄道開発のノウハウさえほとんど持っていなかった日本にとっては、まさに願ってもない申し出でした。

首相の桂太郎は、この鉄道出資の提案を二つ返事で歓迎します。

オファーを受け入れたその夜から、ハリマンを歓迎する会が次々と開催され、政府の大物たちも嬉々として参加するなど、こうして日米の未来をつなぐ夢のプロジェクトが立ち上がるはずでした。

ところが、そこへポーツマスでの講和会議(日露戦争の講和会議)から帰国した外相、小村寿太郎が「桂・ハリマン協定」に強硬な反対論を繰り広げ、強引に協定を破棄させてしまったのです。

小村の言い分はこうです。

日本兵の尊い血を流して手に入れた満洲の権益を、ハリマンと共有するなど許されない…

当然、ハリマンは協定破棄に激怒します。

それは同時に米国を怒らせることになりました。

ただでさえ米国は、有色人種とみくびっていた日本が大国ロシアを取ったことに脅威を抱きはじめていました。

そこへ「桂・ハリマン協定」を一方的に破棄されたのでは敵愾心が生まれても仕方がありません。

この6年後、米国は日本を仮想敵国とした対日戦略『オレンジ計画』を策定します。

当時の米国は日本のみならず、対イギリス戦略(赤色)、対ドイツ戦略(黒色)、対メキシコ戦略(緑色)など、いくつかの国に対して「カラープラン」と呼ばれる外交戦略をもっていました。

日本に指定したカラーがオレンジ色だったから、対日戦略は『オレンジ計画』と呼称されます。

この『オレンジ計画』により日本は米国の仮想敵国として想定されたわけですが、その理由の一つが小村寿太郎による「桂・ハリマン協定」の破棄にあったことは想像に難くない。

以後、米国は日英同盟を破棄させるなど、日本を国際社会から徹底的に排除する外交を展開していきます。

やがては世界経済をブロック化させ、とりわけABCD包囲網を完成させて貿易に依存する日本経済の首を締めにかかります。

ついには石油を止め、日本側から開戦させることに成功します。

小村寿太郎は、日露戦争で犠牲となった日本兵のことを考え「桂・ハリマン協定」を破棄させたわけですが、結局は協定の破棄が対米関係を悪化させ、ついには惨めな敗戦に至って、すべての日本兵、および日本国民の犠牲を無駄にすることになったのです。

もちろん、小村寿太郎は日露講和条約の功労者であり愛国者でもあります。

そこに悪意など一欠片もない。

ただただ、政治家の判断というものがいかに難しいものであるかを痛感するばかりです。