令和の大調査 ~安土城~

令和の大調査 ~安土城~

今から450年前の2月上旬といえば、旧暦で天正2年のちょうどお正月ごろにあたります。

この年のお正月、織田信長は当時居城であった岐阜城において配下諸将の参賀を受けています。

祝賀ののち、馬廻衆(側近)だけの酒宴となった際、前年に成敗した朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首を薄濃(はくだみ)、すなわち3人の頭蓋骨を漆でかため金泥などで彩色して飾り、それを酒の肴にしたことは有名な話です。

この話は、第一級の信長史料とされる『信長公記』に典拠があるものの、さすがに金箔の髑髏(どくろ)を盃にして酒を飲んだというのは、後世になってから捏造されたものでしょう。

「金箔の髑髏(どくろ)を盃にして酒を飲んだ…」という史料的な裏付けは一切ない。

おそらくは、信長の残虐性を物語る一つのエピソードとして徳川時代になってからの創作だと思います。

徳川幕府としても、神君家康の政権発足を正統化するのに「信長残虐論」は都合が良かったのかもしれない。

さて、その酒宴から2年後、信長は近江の琵琶湖のほとりに新たな居城を築きはじめます。

それが、安土城です。

安土城の築城時期は、信長の「天下布武」の奇跡の中でも最も多忙な時期と重なっています。

当時の信長にとって主たる敵は越後の上杉謙信と石山本願寺の顕如でしたが、上洛の際には北陸路を経由して入京するであろう上杉謙信、現在の大阪城址に位置していた石山本願寺らを牽制するためにも、京都にちかい安土は絶好の地の利を有していました。

安土城は、①高層の天主、②高い石垣、③瓦ぶきの建物、という3つの要素が、日本の城郭史上において初めて揃った城で、その後の近世城郭の出発点にもなりました。

まちがいなく、信長でなければ創れなかった城です。

残念ながら、完成した安土城に信長が住んだ期間はわずかです。

ご存知のとおり、天正10(1582)年に「本能寺の変」により信長は明智光秀に討たれ、城はその10日あまり後に焼失してしまいました。

誰がなぜ火をつけたのか、天主が焼けた原因などについては未だ明らかになっていません。

近年、安土城の天主(天守閣と言われるようになるのはその後のことです)の姿が様々に復元されはじめていますが、本当の姿はわかっていません。

そんな安土城ですが、今年度から滋賀県が20年計画で城跡の調査と整備に乗り出しています。(令和の大調査)

先ごろ、昨年10月からはじまった初年度の調査が終了したとのことです。

今年度は、天主台の北東にあたる場所(約320平方メートル)を発掘したようです。

私も一度、安土城址に行った経験がありますが、天主台の北東といえば城の中心部の一角にあたる重要な場所です。

発掘調査によれば、斜面では石垣、平坦な場所では建物の状況が見えてきたとのことです。

来年度以降も3年かけて天主台周辺の調査を続ける計画のようですが、「令和の大調査」によって安土城の実像がどこまで解明されるのか、実に楽しみです。