常識を覆したマレー沖海戦

常識を覆したマレー沖海戦

今から82年前である昭和16年の今日、我が日本の帝国海軍はマレー半島沖でイギリスの東洋艦隊と戦いました。

いわゆる「マレー沖海戦」です。

2日前の12月8日には真珠湾攻撃が行われていますが、むろん、マレーでの作戦はこれと連動したものです。

当時、我が国の存亡は南方地帯の資源を確保できるか否かに掛かっていましたので、まずはマレー半島に上陸し、イギリスのアジア支配の拠点となっていたシンガポールを陥落させる必要がありました。

イギリス政府はシンガポール防衛のために、当時、最新鋭の戦艦だった「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を、4隻の駆逐艦で護衛する東洋艦隊を編成し派遣していました。

12月8日、マレー半島の東岸に上陸作戦を展開していた日本軍の輸送船に対し、イギリス東洋艦隊はこれを攻撃するためにシンガポールを出撃します。

これを日本の潜水艦が発見。

付近を警戒監視していた日本の重巡洋艦部隊が急行したものの、悪天候のために双方が敵を発見できませんでした。

当時、日本軍が進駐していた仏印(ベトナム)サイゴンの航空基地からも、一式陸上攻撃機や九六式陸上攻撃機の部隊が出撃していましたがそれでも発見できず。

そして12月10日の早朝、ついに日本の哨戒機がクワンタン沖を航行していたイギリス東洋艦隊を発見します。

発見されたイギリス東洋艦隊のフィリップ中将は、日本の戦闘機の後続能力を過小評価していたため、要するにベロ舐めしていたため、「日本の戦闘機がサイゴンから攻撃を仕掛けてくることはないだろう…」と高をくくり、退避行動をとりませんでした。

そこが運の尽き!

当時、日本海軍の陸上攻撃機(陸上から発信する攻撃機)の航続距離は、1,000キロ以上の行動半径を有していました。

すなわち、イギリス東洋艦隊を十分に捕捉できる距離だったのです。

ただちに、サイゴンにいた第一航空部隊の松木少将は攻撃を決断し、陸上攻撃隊(一式陸上戦闘機と九六式陸上戦闘機)に出撃命令を下しました。

我が陸攻隊は東洋艦隊に波状攻撃をかけ、イギリスご自慢のプリンス・オブ・ウェールズは魚雷7本と大型爆弾2発を浴びせられ轟沈。

レパルスもまた、7本の魚雷をうけて沈められてしまいます。

実は、作戦行動中の戦艦が、航空機の攻撃によって沈められたのは世界初のことでした。(真珠湾攻撃で沈めたのは、あくまでも停泊中の戦艦)

それまで「作戦航行中の戦艦を航空機攻撃で撃沈することは不可能…」と言われていました。

世界の海軍関係の誰もがそのように考えていた常識を、我が国は陸上攻撃機による雷撃(魚雷攻撃)により見事に覆してしまったのです。

それが、マレー沖海戦です。