無魂洋才で国亡ぶ

無魂洋才で国亡ぶ

現代を生きる私たちは、あたりまえのように漢字を使用しています。

古代中国で生まれたこの文字は、我が国に伝来して以来、先人たちの叡智によって独自の文字に派生させながら定着していきました。

しかしながら、過去には、日本人が自らこの漢字を捨てようとしたことが何度かありました。

まず、漢字廃止論を唱えたことで最も有名なのが、我が国の近代郵便の礎を築いた前島密です。

明治維新寸前の1866年、前島密は最後の将軍・徳川慶喜に「漢字廃止の義」を献上しています。

「国家の大本は国民の教育にして、その教育は士民を論せず国民にあまねからしめ、これをあまねからしめんにはなるべく簡易なる文字文章を用いざるべからず」と。

前島密の主張は「国家の根幹をなす教育を広く行き渡らせるには、その習得に膨大な時間を要する漢字の存在はそれを妨げる障害であるため、困難な漢字を廃して、アルファベットのような音のみを表す音符文字、すなわちカタカナとひらがなのみを使用するべきだ」というものでした。

こうした前島の主張は、当時没落しつつあった清国(大清帝国)の状況から大きな影響を受けているものと推察されます。

アヘン戦争以来、清国があのような屈辱的な状況に陥った根本原因は、漢字という形象文字に毒され、西洋の技術や学問を導入できなかったからだ、と考えたようです。

そうした思考の延長で「日本の教育水準が低く国力が振るわないのもまた、先人が無見識に漢字を輸入してしまったからだ」と思ったらしい。

そして「幸いにも、日本には仮名文字というアルファベットと同類の文字があるのだからそれを活用し、漢字のような不便無益な文字は捨てるべきだ…」とも。

たしかに前島密が言うように、当時の漢字は現在とは異なって習得するのが困難な文字でした。

例えば、「からだ」という漢字を書く場合、現在の私たちは「体」もしくは「身体」と書きますが、戦前は「身」「躰」「體」「躯」「五躰」「肉體」「身體」「肢體」などなど、この他にも複数存在し、複雑なつくりとなっていたために、その習得には膨大な時間を要したのは事実でしょう。

因みに、前島密は平仮名使用の主張に基づいて日刊紙(まいにちひらがなしんぶんし)を刊行したのですが、当時の日本国民(一般国民)には新聞を読む習慣がなかったのに加えて、漢字を使いこなす新聞を読む層には逆に読みづらかったようで、一年ぐらいで廃刊になってしまいました。

明治初期には、前島密以外にも漢字廃止を主張した知識人が何人かいました。

初代文部大臣の森有礼などは英語を公用語化(法律や学問などに使用)すべきだ、と主張していたほどです。

もしもそのようにしていたなら、インドみたいになっていたでしょうか。

そうしたなか、優れた保守主義者でもあった福沢諭吉はさすがに慎重でした。

福沢は「漢字の数は概ね2000文字ぐらいあれば十分に用が足りるので、漢字の数を制限すればいい…」と主張したのでございます。

結局、明治日本は、仮名文字の整理、漢字制限、新たな言葉の作成などによって漢字を廃止することなく近代化の波に対応していくことになりました。

そもそもその昔、大陸から漢字が入ってきたときにも、我が先人たちは「訓読み」という手法を編み出すことによって乗り切っています。

こういうところこそ、我が国がお得意とするところの「和魂洋才」というものです。

現在の私たちが日本語によって近代国家を運営できているのもそのお陰様です。

川崎市議会みたいに「録音すれば用が足りるのだから、速記法による議事録化など必要ない」というのは無魂洋才であって、もっとたちが悪い。