緊縮財政と戦争

緊縮財政と戦争

現在、我が国は様々な政治課題を抱えています。

・実質賃金の長期的下落に伴う国民貧困化

・インフラの脆弱化

・科学技術力の凋落

・少子化の進展

・医療提供体制の弱体化

・食料・エネルギー安全保障に関わる危機管理能力の低下

・地方の衰退と益々強まる東京一極集中

・東アジアにおける防衛力の相対的低下

数えあげれば、きりがない。

そして、これら諸課題の根底にあるのは「緊縮財政」です。

愚かにも我が国の政治は、「1200兆円を超える国の借金があるから、財政を切り詰め黒字化しなければならない…」という間違った前提に立って財政運営が行われ、なんと多くの国民がそれを支持しています。

実は先の大戦でも、我が国が対米英に対して「戦争」で応じなければならなかった要因の一つが、この「緊縮財政」にあったのをご存知でしょうか。

我が国が明治新政府の下で近代的通貨制度を整備したのは周知のとおりです。

当時の理想的な通貨制度とは「金本位制度」で、それがグローバル・スタンダードでした。

金本位制度とは「その国は、保有する金の量以上の通貨を発行することができない」という制度です。

当時は、これをできる国こそが「一等国(先進国)」だと国際的に信じられていました。

なので我が国も明治政府発足当時には、例えば井上馨や松方正義が大蔵卿(今の財務大臣)だったころ、金本位制、あるいは銀本位制を試みたわけです。

しかしながら当時の日本には、未だそれを具現化するほどの国内供給能力が不足していたため、うまくいきませんでした。

国内供給能力(モノやサービスをつくる力)の弱い国が金本位制を行うと、たちまち貿易赤字になって金が国外に流出してしまうことになります。

明治政府がまともに金本位制度を採用できるようになったのは、日清戦争の後です。

清から多額の賠償金を獲得し、金の保有量が増えたことを受けて1897年に金本位制を採用したのです。

その後、第一次世界大戦が勃発。

大戦勃発により、さすがに各国は金本位制を一時的に離脱します。

ご承知のとおり、金本位制なんてやっていたら、どこの国も戦争需要に対応できません。

戦争が終結した後も、1923年(ちょうど今から100年前)に関東大震災が発生したこともあって、日本は金本位制への復帰を果たせずにいました。

なぜなら、大震災から復帰するためには政府が貨幣(財政)を支出しなければならないからです。

ふつうの国は、そうするものです。

もしもそんな状況下において貨幣発行が国内の金保有量に制約されてしまったら、復興を成し遂げることなど不可能ですので。

因みに、大震災からの復興を理由に「増税」という愚策を強行したのは、東日本大震災後の日本くらいのものです。

関東大震災発生時の日本政府のほうが、現在よりもはるかに真っ当だったため、当然のことながら金本位制への復帰を延期したわけです。

ところが、その後の1929年に世界大恐慌が発生し、世界的な超デフレ経済に突入してしまいます。

なんと日本政府はこのタイミングで金本位制に復帰するという愚を犯します。

ときの内閣は、濱口雄幸(はまぐち おさち)内閣で、大蔵大臣は井上準之助。

のちに暗殺されることになる井上準之助は、大の「緊縮財政論者」でした。

これにより日本経済は超デフレ化し、昭和恐慌に突入します。

結果、銀行や企業の休業・倒産が続出。

農村は荒廃し、失業者が街に溢れました。

世界の物価下落に日本の物価下落が追いつかず、相対的に値段の高い日本製品は外国でまったく売れなくなってしまったのです。

国内では労働争議が多発し、一家心中や身売り、浮浪者が溢れ、世相は不穏になっていったのです。

1930年11月になると、濱口総理は東京駅で銃撃され、そのとき受けた傷が原因で翌年に他界します。

さらにその翌年、強引な金解禁(金本位制)を強行した井上準之助も暗殺。

さすがにこうなっては「金本位制を維持することは難しいのでは…」という国内外の憶測が広まり、円売りドル買いが加速します。

政府の買い支えもむなしく円売りドル買いは止まらない。

濱口内閣を引き継いだ犬養毅(いぬかい つよし)内閣は、ついに金本位制を離脱することになります。

ここで儲けたのが、三井や三菱などの財閥です。

彼らは為替市場でドルを買い占めていたのです。

ここに国民の政治への不満と怒りが爆発。

こうした反感に乗じて、五・一五事件、二・二六事件が発生し、以後、右翼勢力や軍部のパワーが高まっていくわけです。

とりわけ、二・二六事件は衝撃的かつ致命的でした。

これにより軍務大臣現役武官制が復活。

結果、軍部の意向によって内閣が簡単に吹っ飛んでしまうようになり、いわゆるシビリアン・コントロールの効かない政治が行われるようになります。

以後、日本は常に第二の「二・二六事件」を恐れながら、ご宸襟を悩ませるほどに困難な内政と外政に対処しなければならなくなります。

詰まるところ、対処できなかったのです。