身のほど知らずの改革者たち

身のほど知らずの改革者たち

私たちが生きている現実世界というものは、長い歴史のなかで先人たちが積み上げてきてくれた「遺産」の多くに依存し成立しています。

例えば、どんなに独創的な日本人がいたとしても、その人は日本語という「歴史の中で積み上げられてきた遺産」を使わなければ日本国内で仕事をすることも生活をすることもままならないでしょう。

あるいは「俺の音楽は独創的で誰にも真似などできない…」という新進気鋭の作曲家だって、先人が作ってくれた「音符」を使って曲を作るにちがいないし、何もない無人島でゼロから道具や食料を作って生活できる人もそうそういないだろう。

そうした無人島で何もできない自分に気づいたとき、いかに今を生きる私たちが「過去の遺産」に多くを依存しているかを痛感するはずです。

だからこそ、「過去の遺産」を無視し、白紙の状態から世の中を合理主義的に設計しようとする改革主義は、必ず失敗するのです。

合理主義とは、人間の理性は絶対的に正しい、とするイデオロギーです。

実に愚かなイデオロギーですが、人間理性が絶対的に正しいのであれば、そもそもこの世に法律なんて必要ないでしょう。

したがって、過去の遺産を重視しつつ、現実の世の中をなお改革しようとするのであれば、その改革のスピードは漸進的にならざるを得ない。

逆に言えば、過去の遺産を重視しないのであれば、なぜ改革のスピードを漸進的にしなければならないのかの説明がつきません。

因みに、人間理性に絶対的な価値を置かない者こそ、真の保守主義者です。(真の保守主義者は「英語を第二公用語にしよう」などとは言わない)

誠に残念なことですが、とかく政治の世界には、「抜本的な…改革!」を声高に叫ぶ人たち、即ち、自分の理性に過剰なほどの自信をもった人たちが大勢います。

よく考えてみてほしい。

「抜本的…」という言葉ほど、そら恐ろしい言葉はない。

読んで字のごとく、根本を引っこ抜いちゃうわけですから…

根本を引っこ抜いちゃったら、改革もへったくれもない。

それは改革ではなく、ただの破壊にすぎない。

根本を残しつつ、丁寧に修復改善することを「改革」という。

よって、「抜本的改革」という言葉、あるいは「改革保守」などという言葉は、そもそもの概念矛盾です。

いつの時代でも、問題のない世の中なんてあり得ません。

いかなる組織も、いかなる制度も何らかの問題を抱えています。

といって、何度も言うように人間理性は絶対ではない。

だからこそ、過去の遺産を活かしつつ、世の問題点を漸進的に改善していくしかありません。

にもかかわらず、今なぜか、破壊的な抜本改革を主張する政党が躍進しています。

この人たちは、もともと「過去の遺産」を重視しない人たちだから、コモンセンスというものが本能的に理解できない。

その社会に蓄積されてきたコモンセンスを理解できない集団が権力を手にすると、必ず秩序破壊集団となり世に多くの混乱をもたらします。

国民のルサンチマンと抜本改革を煽り、モンスター的集票マシンと化した政治集団。

こうした連中とは、とことん戦わなければならない。