沖縄戦の教訓

沖縄戦の教訓

本日6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。

大東亜戦争末期の昭和20年に行われた沖縄戦は、激しく凄惨な地上戦だったことは周知のとおりです。

軍人のみならず、民間人にも多くの犠牲をもたらし、県民の4人にひとりが命を落とされています。

その後、沖縄県は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」と定めました。

最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園では、本日も朝早くからご遺族の方々などが平和への祈りをささげておられることでしょう。

平和祈念公園では、正午前から戦没者追悼式が行われる予定です。

奇しくも、あれから78年目を迎えた今、中共による台湾侵攻の危機が刻々と迫っており、もしも有事になれば再び南西諸島が戦争の惨禍に巻き込まれる可能性が出ています。

であるからこそ私たち全ての日本国民は、多くの住民が犠牲となってしまった沖縄戦を教訓に「今、何をすべきか…」を考え直すべきです。

因みに、有事の際、もちろん自衛隊は国民を守るために戦うわけですが、住民を保護し避難させる直接的な役割を担っているのは川崎市などの地方自治体です。

自衛隊は戦闘がはじまれば、敵の攻撃を排除することを最優先しますので、避難や保護の役割は地方自治体にあるのです。

だからこそ、私のような地方議会の議員もまた、有事の際に住民をどのように避難させ、いかにして生命と財産を守るのかを常に考える責務があるのだと思っています。

さて、前述のとおり、沖縄戦では軍人のみならず、多くの民間人に犠牲を出してしまいました。

そこから具体的な教訓を得なければならないわけですが、むろん住民に大きな被害が出たのは沖縄戦だけではなく、日本全体がそうでした。

もっと言えば、第2次世界大戦では、世界中で多くの民間人が犠牲になっています。

これは、国家対国家の戦争、いわゆる「国家間決戦」が行われるようになった近代以降の戦争の大きな特徴です。

国家間決戦では敵が降伏するまで戦うため、民間人への無差別爆撃や民間地での戦闘などが行われるわけです。

そうした時代背景のなか、沖縄戦において旧日本軍は、米軍が本土に上陸するのを一日でも遅らせる方針をとったのですが、その結果、多くの住民を巻き込んでしまったのです。

「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と大田実・海軍司令官が電報を打ったことなどは美談として語り継がれていますが、徹底抗戦することを前提とされていたのであれば、やはり県民を事前に避難させるべきだったと思います。

また、沖縄第32軍の一部部隊を台湾へ移動させたなど、陸軍参謀本部の作戦面での失敗も大きかったと推察します。

ただ、沖縄戦では米軍に上陸される前に避難勧告が出ていたのは事実なのですが、約60万人の県民の多くは避難することができませんでした。

男性たちは戦争に動員され、女性や高齢者の中には「必ず皇軍が守ってくれる」と信じて避難しない人たちもおられたそうです。

避難中の船が米軍に沈没させられ犠牲になった子どもたちもたくさんいました。

要するに、敵に制海権や制空権を獲られ、攻め込まれている段階において避難しようとしても既に遅いわけで、そうなる前に住民を安全な場所へ移動させねばならないということです。

といっても、離島の沖縄から本土へ避難するのは実に困難です。

140万人以上もいる沖縄県民の多くを速やかに本土へ避難させるのは現実的に不可能です。

ゆえに最低限、最も危険が迫る地域から避難する船や飛行機、及び受け入れ先の態勢を速やかに手配できるように計画(シミュレーション)しておくべきです。

もしも台湾有事が勃発した場合、とりわけ台湾から約110キロに位置している与那国島など先島諸島には、一時的な避難所となるシェルターを造り、食料などを備蓄しておくことは必須だと思います。

港湾施設というものは有事の際には軍事施設にもなりますので、各自治体が管理する港湾だってテロ攻撃を受ける可能性がゼロとは言い切れません。

むろん、港湾以外の各種インフラが標的になることも考えられます。

川崎市も然りですが、果たしてその対策はできているのか…