間違った歴史観が間違った改革をもたらす

間違った歴史観が間違った改革をもたらす

1590年、豊臣秀吉は小田原の北条征伐を成功させ、天下統一を果たしました。

そしてその直後、秀吉は家康から所領5か国を召し上げ、関八州(江戸)への移封を命ずることになります。

今を生きる私たちには想像も及ばないことですが、当時の江戸は湿地帯が無限に広がる寒漁村に過ぎず、しかも日本列島の交流軸から外れていたために中央政界の情報など一切届かない陸の孤島でした。

西には箱根山や富士山という険しい山脈が万里の長城のように連なり、当時の中央政界である大阪や京都から隔絶されていたのです。

家康は、そうした辺境の地に追いやられました。

天下統一の直後という豊臣家が軍事面・経済面・政治面において大いに勢いがついていたその時期に、豊臣家臣団のなかで最も力をもっていた家康に対し、隙かさず「関東移封」を命じたあたりに秀吉の政治センスを感じます。

ただ、左遷にも等しい処分を受けた家康ですが、彼は関東への移封をむしろ歓迎していたのではないか、という説があります。

理由は、当時の江戸は確かに葦ばかりが繁る広大な不毛地帯ではあったものの、当時のエネルギー資源であった森林資源が政治の中心地だった関西地方よりも実に豊富な地域だったからです。

秀吉が天下を統一したころの関西の地は、ほぼ禿山ばかりだったという。

ともかくも家康は、不毛地帯である江戸を徳川家の本拠地と決めました。

江戸に入った家康がはじめに手をつけた事業が二ヶ領用水の整備です。

むろん、まずは良質な水を確保しなければならなかったからです。

次いで家康が行った事業は、江戸を不毛の地にしていた元凶の退治です。

その元凶とは日本で2番目に長い延長をもつ「利根川」のことで、家康は江戸に流入していた利根川を銚子方面に付け替えたのです。

利根川の付け替えは、広大な湿地帯だった江戸を大都市へと変貌させるには欠かせない大事業でした。

だが、この大事業の目的はそれだけではありませんでした。

歴史を学んでいると気づくことですが、偉大なる歴史的英雄というものは、一つの目的のために一つの事業を行わない。

必ず一石二鳥、一石三鳥の効果を考えて大事業を行います。

家康が利根川を銚子方面に付け替えたのは、伊達封じの目的もあったのです。

利根川付け替え以前は、奥州と房総半島は陸続きでした。

当時の房総半島は海上交通の要衝であり、家康はここを伊達正宗に抑えられることを避けたかったにちがいない。

利根川を銚子方面に付け替えれば、奥州からの軍事的脅威を退ける天然のお堀になります。

さて、家康が不毛の地であった江戸を大都市へと変貌させるために次に考えたのが江戸の流通(ロジスティクス)です。

利根川の流れを変えたことで、それまで湿地帯だった関東平野の河口域が耕作可能地となりました。

つまり、田んぼが作れる地域が劇的に広がったのです。

田んぼ(おコメ)が増えれば民は潤い、民が潤えば年貢収入も増えます。

しかしながら、いくら耕作可能地を確保したところで、それを耕してくれる人口が同時に増えてくれるわけではありません。

つまり、耕作可能地を一気に5倍、10倍の面積に拡大しても、農作業をしてくれる人口を同時に5倍、10倍に増やすことは不可能なのです。

そこで家康は考えました。

いかにおコメをつくるかよりも、いかにおコメを運ぶのかがより重要であるかを。

要するに都市建設の初期段階においては「生産」よりも「流通」のほうがより重要であるという認識に至り、水運を整備したわけです。

何しろ、おコメは重い。

運ぶには陸路よりも水路のほうが遥かに楽で早い。

いわば、現在の高速道路網に相当します。

結果、家康は関東平野を水運という流通ネットワークで結び、江戸の都市生活をより一層便利に、より一層文化的にしたのです。

即ち、家康はそれまで脅威だった水を、インフラ資源に変えたのです。

第二次世界大戦期の米軍の将軍、オマール・N・ブラッドレイは「素人は戦略を語り、プロはロジスティクスを語る」と言っていますが、その点、家康は間違いなくプロだったのです。

こうして江戸は、家康及びその後の幕府が施した大事業によって、紛うことなく世界最高峰の大都市となりました。

1750年ごろの江戸の人口は、ロンドンやパリやベルリンなど当時のヨーロッパの大都市を上回っていますし、GDPにおいても欧米に匹敵しています。

また、識字率をみても、江戸時代後期の江戸の識字率は70%以上(全国平均で60%以上)だったと言われています。

このことは、いかに当時の日本の教育水準が高かったのかを示しています。

産業革命によって世界の工場となった英国でさえ、当時の就学率は25%以下であることから、識字率はさらに低かったと考えられています。

それに、人口100万人を超える巨大都市であったにもかかわらず、ゴミ焼却場はゼロ。

ほぼ完璧なリサイクル社会であり、世界に誇る環境先進都市でもありました。

このように、江戸という大都市の発展があったればこそ、江戸時代の日本の発展がありました。

なお、江戸時代の日本は、国内需要をほぼ国内供給で賄えていた点においても立派な先進国です。

戦後教育を受けてきた私たち日本国民は「江戸までの日本は小国だった」と学ばされてきましたが、とんでもないでっち上げです。

こうしたでっち上げによる洗脳から「守旧的な江戸時代に終止符を打ったことで文明を開花させた明治維新は偉大だった」という誤解が生じます。

その誤解こそが「古臭い過去をすべてぶち壊して、明治維新のように1から国を作り直せばいい…」という恐ろしい思想が生まれます。

例えば、過激ネオリベ政党である「維新の会」創設者の橋下徹さんは、大阪市長時代に次のように述べています。

「明治維新のように古い体制を根こそぎ変え、自立した国家を作っていきたい」

要するに、過去を否定し現状を破壊的に変えることで新しい国家を1から作り直すべきだ、と彼は言うのです。

これは既に「改革」などと言うものではなく「革命」です。

江戸時代260年というインフラや学問や文化などの大いなる蓄積があったからこそ、明治維新によって僅か50年程度で近代国家をつくることに成功したことを私たち日本国民は知るべきです。

そして同時に、歴史の蓄積があったとはいえ、僅か50年で近代国家へと変貌したことに伴う社会的・経済的な歪みが生じていたことも知るべきです。