出光佐三、あっぱれ!

出光佐三、あっぱれ!

今週のレギュラーガソリンの小売価格は、全国平均で1リットル当たり174円となりました。

経済産業省によりますと、12週連続で170円を超え、2008年以来の高値水準となっているとのことです。

さて、石油の探査・採掘・生産、そして石油製品の輸送や販売に至るまで国際石油カルテルを形成できるほどの支配力をもった資本のことを「国際石油資本」あるいは「国際メジャー」といいます。

現在では、ウォルマート、シェル、エクソンモービル、BPなどが代表的な国際メジャーです。

さて、大東亜戦争敗戦の直後、即ち占領下にあった我が国では既に外資による搾取がはじまっており、当時の国際メジャーもまた、高値で粗悪なガソリンを日本企業に売りつけ暴利を貪っていました。

そして、日本石油はカルテックス、東亜燃料はエクソン、三菱石油はテキサコにと次々に国際メジャーに呑み込まれていったのです。

むろん、国内外から「日本の石油市場は終わった…」と言われたわけですが、敗戦国民となった日本国民の誰もが、ただただ指を咥えて傍観することしかできなかったのです。

ところが、一人の日本人だけはちがいました。

その名は、出光佐三。

そうです、出光の創業者です。

当時、一企業の経営者にすぎなかった出光佐三ですが、彼は「このままあきらめれば、日本は国際メジャーの食い物にされてしまう」という危機感を抱き、国際メジャーと対等に勝負することを決意します。

「一刻もはやく、安くて良質なガソリンを日本人に届けてみせる!」と。

むろん、当時の日本でガソリンを自由に販売することは困難でした。

そこで彼は、莫大な先行投資をして『日章丸』という大型タンカーを建造し、なんとそのタンカーでアメリカに直接買い付けにいったのです。

昭和26年、煙突に日の丸が描かれた巨大タンカー(日章丸)がサンフランシスコ港に到着したとき、サンフランシスコの住民たちは「まさか、あの敗戦国が自前のタンカーでガソリンを買い付けにきたのか!」と度肝を抜かれたらしい。

日章丸は、およそ5000キロリットルのガソリンを積んで日本に戻ります。

昭和27年、出光はアメリカから輸入したガソリンを「アポロ」の商標で発売しました。

アポロガソリンは品質の良さと安さでたちまち大評判となり、当時「箱根の山も、出光のガソリンがあれば怖くない」などと言われたそうです。

高くて質の悪い国際メジャーのガソリンに苦しんでいた多くの日本人が「アポロは救世主だ」と喝采したのです。

このことは、消費者本位の立場から製品輸入の自由化を唱えつづけた出光の正当性を証明し、国内精製設備の高度化を促すきっかけにもなったのです。

出光は買い付けのために、再び日章丸をサンフランシスコに出航させます。

ところがその途中、取引先から「悪いが、今回の注文は断る」という電報が入ります。

むろん、国際メジャーの圧力です。

出光佐三は頭を抱えましたが、彼はあきらめません。

彼はイランに目をつけます。

イランは当時、世界の13%もの石油を保有する巨大産油国でしたが、イギリスから独立したばかりで、石油を国有化したもののイギリスと抗争中でした。

出光佐三はその好機を逃さなかったのです。

イランから安定的に供給してもらうことで「日本人に安くて良質なガソリンを供給できる」と考えたのです。

日本政府への配慮から、出光佐三は第三者を介してイラン政府と交渉します。

ところが、イランとの取引が成立しつつあったのですが、またしても国際メジャーの圧力がかかります。

なんと、「アジアの連中に石油を渡してたまるか…」と言わんばかりにイギリス海軍が海峡を封鎖して出光とイランとの貿易を妨害してきたのです。

「いかなるタンカーであっても撃沈するぞ」という警告まで発せられました。

それでも出光佐三はあきらめない。

敗戦国日本の一企業でありながら、彼はイギリス海軍を敵にまわすことを覚悟したのです。

出光佐三は信頼できる船長と乗組員たちに指示を出し、日章丸を秘密裏にイランに向かわせます。

なんと日章丸は、浅瀬や機雷などをかわしながら、巧みにイギリス海軍の裏をかき、みごとに海上封鎖を突破して、約22,000キロリットルのガソリンと軽油を積んで無事に川崎港に到着したのです。

これがいわゆる「日章丸事件」です。

この事件は産油国との直接取引の先駆けを成すものであり、日本人の目を中東に向ける大きなきっかけにもなりました。

また、敗戦で自信を喪失していた当時の日本において、国際社会に一矢報いた「快挙」として歴史に名を刻んだのです。

さらには、武器を持たない一民間企業が当時世界第二の海軍力を誇っていたイギリス海軍に「喧嘩を売った事件」として世界でも報道されました。

長年にわたりイギリスに虐げられてきたイランもまた感銘を受け、その後、日本への支援を惜しむことはありませんでした。

当時、モサデク首相に「日本人の偉大さは、イラン人の敬服の的である」と言わしめています。

なんとイラン政府は、最初の石油取引を無償にし、その後も日本だけには半年間のすべての取引を半額にするという破格の条件をつけてくれたのです。

出光の創業以来の社訓は「黄金の奴隷になるな」です。

要するに「カネの奴隷になるな…」と。

なお、出光佐三は常々「出光の目標は金儲けではない」と述べていました。

その証拠に彼は生涯、出光の株式公開を拒み続けていたそうです。

配当やトレードにより、金儲けの片棒を担ぐことだけは避けたいとの思いがあったからでしょう。

終戦直後の出光はすべての事業を失い、500億円もの負債を背負い、さらに1千人もの従業員を抱えていましたが、出光佐三は誰ひとりとしてクビにはしませんでした。

従業員をコストとみなす新自由主義とは異なり、出光佐三は従業員を「家族」とみなし「会社一丸」となって安くて良質な商品を提供することで世に貢献してきたのです。

どこぞやの大手人材派遣会社の会長さんみたいに「クビを切れない社員なんて、雇えない」「正規社員は最後の既得権益だ」などと言っているのとは大違いです。

出光佐三、あっぱれです。