王朝交代を知らない国

王朝交代を知らない国

中国(シナ)では王朝交代期に必ずと言っていいほど人口が急減していたことが歴史的にわかっています。

まず、秦時代末期の人口は減り続けながら前漢の成立とともに回復します。

次いで後漢の成立前にも人口が急減しましたが成立するとやはり回復に転じ、後漢と三国時代の入れ替わりのときも同じように人口が急減し直ぐに増加に転じています。

その後も、隋と唐の交代、五代十国と北宋の交代、北宋と南宋、南宋と元、元と明、明と清、というように前の王朝が滅亡するときに人口が減り、新しい王朝が成立すると増加するという動きが顕著です。

では、いったい何が人口増減と王朝交代を重ならしているのでしょうか。

残念ながら、それに対する明確な答えをだすのは難しい。

むろん大陸の歴史の常として、王朝交代期には夥しい数の殺戮が行われるのでしょうけれど、それだけでは説明理由としての根拠に乏しい。

そこで、一つの仮説として「気候変動」説があります。

気候変動が中国の歴史に強い影響を与えてきたというのは昔から主張されてきたことですが、正確な過去の気候記録がないせいで長年そのことを検証できずにいました。

しかしながら、ここ数十年の気候科学の進歩のおかげでそれが詳細にわかるようになり、中国の歴史文書と組み合わせることで気候変動が中国史に与えた影響を調べることが可能になりました。

中国にかぎらず近代以前の世界では、ほぼ全ての人々が農業に従事していたため気候変動の影響は現代以上に大きかったと考えられています。

その結果、社会状況はその時の農業の成果によって決まると言っても過言ではなく、収穫がひと度減れば人々は困窮してしまい、そこから発生する社会不安がやがて一揆や戦争、最悪の場合は国の滅亡につながることになったのかもしれません。

ある研究機関の統計調査によれば、気温が①穀物収穫度、②飢饉、③一揆の三つ全てに密接の関係があるとのことです。

特に収穫に関しては相関が一番強いようで、気温低下が農作物の収穫量を減らすというのはあらゆる研究が立証しているところです。

過去の中国においても寒冷化が凶作の大きな原因であったに違いない。

しかし、飢饉に関しては収穫量とも一揆とも強い関係は確認されておらず、ふつう飢饉というのは農作物の収穫が減ったことで発生し、収穫高こそが飢饉の主要因であると考えがちですが、統計結果をみるかぎり必ずしもそうとは言い切れないようです。

飢饉というのはそれほど単純な現象ではないらしい。

そもそも我々が飢饉と呼ぶのは人々がひどく飢える状態のことで、則ち一人あたりの食料が少なくなればそれを「飢饉」と呼んでいます。

この一人あたりの食料は収穫の減少以外にも様々な理由で減少します。

例え農作物の生産が増えたとしても、それ以上の速さで人口が増えてしまえば一人あたりの食料が減ってしまいます。

いま実際にアフリカでは飢饉が頻繁に発生していますが、その要因の一つを「アフリカの人口爆発」だと考える識者も多い。

これに加えてもう一つ注意すべきなのは、飢饉というのは適切な対応をとれば防げるということです。

例えばある地域で食料が不足気味なのならば、他の余裕のある地域から運びこめば未然に防ぐことができますし、政府が年貢を免除すれば負担は和らぎます。

実例として1743年に清の北部で大干ばつが起こったことがありましたが、深刻な飢饉には至っていません。

理由は政府が備蓄していた穀物と、他の地域の穀物とを迅速に干ばつ地域に送り込んだからです。

反対に、干ばつは清朝末期にも発生していますが、当時の清朝は西洋列強との戦争で疲弊していたため干ばつに対して適切に対応できなかった結果、多くの餓死者がでてしまいました。

このように飢饉というのは収穫の減少以外にも人口増加や政府の対応の良し悪しなど様々な要因が関係しており、収穫が減ったからと言って直ぐに起こるわけではないことがわかります。

ただ、飢饉とは関係なく収穫量の減少が社会不安を招き、やがては一揆や戦争につながったことは統計からも否定はできないようです。

一方、気候変動により大きな影響を受けるのは、むろん農業だけではありません。

とかく我々日本人は「気候が変動して困るのは農民である」という印象を強く受けますが、大陸には私たち日本国民にとって馴染みの薄い「遊牧民」がいます。

実は、農民以上に気候変動の影響を大きく受けてしまうのはユーラシアステップに根を張る遊牧民たちです。

例えば、馬と弓を匠に組み合わせて戦うモンゴルの遊牧民は歴史的に中国の農耕民の大きな脅威として存在しつづけ、少なくとも殷の時代から遊牧民との闘争の記録が残っています。

遊牧民は常に北方で武力をちらつかせて農耕民から食べ物や物品を収奪したり、時には侵略後に自らの王朝を打ち立てたりと中国の歴史に非常に大きな影響を及ぼしました。

むろん、遊牧民も絶対悪というわけではなく、例えば中国と西の世界をつなぐ役目を果たしたり、農耕民では作ることのできない特殊な物品や馬を供給したりと農耕民のほうも遊牧民を必要とした一面もあるものの、大陸において王朝の滅亡に大きく関係していたことはまちがいありません。

ただ、遊牧人が南下して農耕民と衝突していたことはわかっていますが、いつ、そしてなぜ、遊牧民が特定の時期にやってくるのか、その理由についてははっきりとわかっていませんでした。

ところが、このことについても「根本的な原因が気候変動だったのではないか…」という説があります。

そもそも遊牧民とは家畜が食べる草が豊富な場所を常に追い求める人々を指します。

つまり、ある地点の草を食べ尽くせば別の場所に、そこでも食べ尽くせばまた別の場所に、といった移動を常に行っています。

では、もしそこで気温が下がったり、降水量が一気に落ちたりしてしまったら、遊牧民はどんな行動をとるのでしょうか。

まず普段暮らす平原の草の育ちは悪くなるのでそこに留まるわけにはいきません。

ならばもっと温暖な南にいけば草が残っているかもしれないし、南には農耕民がたくさんいるので彼らが育てる農作物を略奪すればいい。

つまり気候変動が遊牧民の南への移動を促し、農耕民との戦争をもたらしたかもしれない。

考えてみれば、遊牧民の生活様式ほど気候変動に左右されやすいものはないですね。

まず自ら食べ物を作り出す農耕民と異なり遊牧民は野生に生える草に頼り切りであり、自然により近い生き方と言えます。

また農業の利点というのは、収穫した穀物を長いあいだ貯蔵できる点にあり、収穫が悪くなったとしても短期間の悪天候ならば乗り越えられました。

一方、草というのは長期間保存するのが難しいうえに、常に移動しなければならない遊牧民は草を持ち歩くことができませんでした。

遊牧民が気候変動に長いあいだ絶えられないのも理解できます。

ゆえに…
気候変動 → 遊牧民の移動 → 遊牧民と農耕民の戦争
…という仮説に説得力を感じます。

ただ、ここでいう気候変動とは気温というより、おそらくは降水量かと思われます。

以上のことから、次のように考えられます。

則ち、気候変動によって収穫が振るわなくなると、大陸の王朝は国内の農民からの攻撃を受けるにとどまらず、国境でもめっぽう強い遊牧民との戦いを強いられることになった。

中国の歴史が、常に王朝交代の歴史であったことの理由がなんとなくわかります。

さて、自然災害には苦しめられつつも農耕を営む上での気候には恵まれ、そして元寇以外は遊牧民からの驚異にほとんど晒されることのなかった我が日本国にとって、歴史上、王朝交代などまったく縁がありません。

神話から生まれた王朝(万世一系)が未だ君臨している、という誇るべき歴史をもっています。

このような国に生まれたことに、ただただ感謝です。