もはや戦後でもなく、戦前でもない

もはや戦後でもなく、戦前でもない

今日は12月8日です。

あの真珠湾攻撃から80年が経ちました。

対米開戦を決断した内閣は東條内閣ですが、東條英機は首相に指名されるとすぐに和平主義者の東郷茂徳を外相に任命するなどして、とにもかくにも和平交渉に注力しました。

とはいえ、日本が対米和平に苦心しているとき、米英はすでに大西洋上で対日戦にむけた協力について協議していたのですから和平など成立するはずがありませんでした。

11月25日の段階に至っては、ルーズベルト米大統領と軍関係者は、どうすれば日本に先制攻撃をさせることができるかを協議しています。

その翌日、運命の「ハル・ノート」なる最後通牒が日本側に手交されたのです。

ハルは、米国の国務長官の名前です。

ただ、ハル国務長官自身が、これをハル・ノートと呼ばれるのを嫌がったらしい。

なにせこれを起案したのはハルではなく、ソ連のスパイとして米国の財務次官補に就いていたハリー・ホワイトでしたので。

さて、日本に突きつけられた最後通牒(ハル・ノート)の内容は酷かった。

日本はシナ・仏印から無条件全面撤退し、汪兆銘政権を見捨てて重慶の蒋介石政権を支持せよ、ということでした。

シナ・仏印からの無条件全面撤退とは、要するに日本に対して「日清戦争以前、即ち江戸時代に戻りなさい…」と言っているに等しい。

日本を無理やり強引に開国させたのはどこの国でしたっけ?

「急いで開国し近代国家をつくらないと、日本は白人列強の植民地となり、あなたがたは白人の奴隷になるんですよ」と脅されたからこそ、私どもの先祖たちは明治維新まで起こして開国し、近代国家をつくったわけです。

ところが近代国家を運営するための資源は国内にはなく、それらの多くが東アジアの海域にあったわけです。

それを米国が主導するABCD包囲網により断たれたことで、日本は干上がった。

後にマッカーサーが米国議会で証言しているように「これらの原料が断たれたら、やがて日本国内で1000万人から1200万人の失業者が発生していたであろう」状況に日本は追い込まれていたわけです。

東條内閣としては、できれば話し合いで解決したかったのですが、米国側にその気はなかった。

「江戸時代に戻って、植民地になりなさい」と言う。

それがハル・ノートです。

戦時中、英国保守党の重鎮オリヴァー・リトルトン生産相は「ハル・ノートで日本をあまりにひどく挑発したので、日本は真珠湾攻撃に追い込まれた」と発言しています。

あるいは、駐日英国大使のクレーギーもまた「ハル・ノートは日本の国民感情を無視するもので交渉決裂もやむを得ない」と述べています。

米国でも、ルーズベルト大統領のライバルと目されたハミルトン・フィッシュ下院議員はハル・ノートの存在を知ると、それを「恥ずべき最後通牒…」と批判し、「日本は自殺するか、降伏するか、戦うしかない」と述べています。

東京裁判でもパール判事は「現代の歴史家でさえも次のように考えることができるのである。即ちハル・ノートのような通牒を受け取ったら、モナコやルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対し戈をとって立ち上がったであろう」と述べました。

当時、日本の真珠湾攻撃を聞いて最も喜んだのは、ルーズベルトとスターリンとチャーチルだったろう。

反戦を公約に大統領に当選したルーズベルトは、どうしても日本から手を出してほしかった。

スターリンはスパイとして送り込んだハリー・ホワイトの起案した最後通牒で日米開戦を実現できた。

対ドイツ戦で苦戦していたチャーチルもまた米国の参戦を求めていましたが、締め上げられた日本が米国に宣戦布告してくれたので、チャーチルの願いは叶ったわけです。

日本が降伏する半年前、この3人はヤルタ(ウクライナ南部)で会談をしています。

ルーズベルトはスターリンに、ドイツ降伏の3ヶ月後に対日参戦するように要請し、その見返りとして帝政ロシアが日本から奪われたとする旅順港や南満洲鉄道の権益を与える密約を交わしています。

あれから80年が経った今、戦争の形態は完全に変わりました。

かつてのような総力戦は姿を消し、今やハイブリッド戦争の時代に突入しています。

即ち、軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧し現状変更を企て敵国を弱体化し自国を富ます、という新しい戦争の時代です。

現に平時と有事の区別は既になく、軍事行動のみならずサイバー攻撃や知的財産権の搾取等をはじめとした政治戦、経済戦、情報戦が繰り広げられています。

ハイブリッド戦争は、日本国憲法9条が前提とするような戦争とは全く異なるものです。

残念ながら、その戦争は既にはじまっているのです。

もはや戦後でもなく戦前でもない。