川崎市教育委員会は、「第3次川崎市教育振興基本計画 かわさき教育プラン第1期実施計画」を策定しました。
この計画では、「市民一人ひとりが“学びの主役”」「多様性を可能性へ」といった理念が掲げられています。
また、「教育から学びへ」という転換が強調され、子ども自身が主体的に学ぶ教育の実現が目指されています。
相変わらず、いかにもごもっともらしい巧言で装飾された内容となっています。
とりわけ、今回の計画の特徴は「探究的な学び」「個別最適化」「多様な主体との連携」といったキーワードに集約されています。
例えば、すべての学校で探究的な学びを推進し、子どもが自ら課題を見つけ、解決する力を育てるとしています。
また、個別の教育支援計画や教育DXの活用により、一人ひとりに応じた学びを実現するとしています。
さらに、学校だけでなく、地域や関係機関と連携し、切れ目のない支援体制を構築することも重視されています。
これらを整理すると、教育のあり方は次のように変化しています。
教師が教える教育 → 子どもが学ぶ教育
一斉教育 → 個別最適化
学校中心 → 社会全体で支える教育
つまり、「教育」という枠組みそのものが、大きく組み替えられているのです。
すでに現場では、次のような変化が起きています。
・「叱るより褒めるべきだ」という流れの中で、評価や鍛錬の機能が後退し、一斉教育が成立しにくくなった
・教員が教育サービスのコーディネーターと化し、「教える主体」として機能しにくくなった
・家庭や地域の教育力の低下により、教育の外部化が進んだ
この結果、教育は「教える主体」を中心とした仕組みから、「支える環境」を中心とした仕組みへと移行しています。
では、こうした変化は、いったい何によって引き起こされているのでしょうか。
それは、教育の主体そのものが曖昧になっていることです。
教師は教える存在から支援者へ、行政は管理者から調整者へと役割を変えました。
その結果、「誰が教育の結果に責任を負うのか」が見えなくなっています。
そもそも「主体性を育てる教育」というのであれば、その前提には、本来「育てる主体」が存在していなければなりません。
教育とは、本来、能力を形成し、その結果に責任を伴う営みです。
そのためには、評価があり、鍛錬があり、その結果に対する責任が伴うはずです。
しかし現在の制度は、「主体性」という言葉のもとで責任を分散させ、結果として教育の主体そのものを希薄にしている可能性があります。
もし、教育の成果が思うように上がらないとすれば、その原因はどこにあるのでしょうか。
理念なのか、制度なのか、それとも運用なのか。
理念・制度・運用のいずれもが噛み合っていないことにこそ、問題の本質があります。
誰が教育の主体であり、誰が責任を負うのか――そこを曖昧にしたままでは、本当に教育の成果が上がるとは考えにくい。
同様の帰結が繰り返されているとすれば、それは制度の問題ではなく、その前提となっている教育観そのものに原因があると考えるべきではないでしょうか。


