ある番組で、消費税の欠陥を論理的に指摘する安藤裕参議院議員に対し、読売新聞特別編集員の橋本五郎氏が反論に窮した末、「そうは言うけど、経済学者たちは消費税は必要だと言っている」といった趣旨の発言がありました。
権威を持ち出せばなんとかなるという発想は、議論としては貧しいものです。
「経済学者がそう言っている」という言葉は、一見すると説得力があるように感じます。
しかし、冷静に考えればこれは論証ではありません。
論点が「消費税は必要か」であるならば、その必要性は制度設計、因果関係、データによって示されるべきです。
ところが「専門家が言っている」という言葉が出た瞬間、議論は内容から肩書へとすり替わります。
何が正しいかではなく、誰が言っているかに話が移る。
このとき議論は前に進むのではなく、止まります。
さて、橋本五郎氏が持ち出した「経済学」について考えてみます。
そもそも経済学(主流派経済学)は本当に科学と呼べるのでしょうか。
科学であるなら、本来、仮説が予測に失敗すれば理論は修正または棄却されるはずです。
これは自然科学に限らず、科学と名乗る以上の最低限の基準です。
しかし主流派経済学では、予測が外れても理論の枠組み自体が維持され続ける傾向があります。
実際、長期デフレの継続や金融危機の発生など、主要な経済事象を十分に予測できなかった例は少なくありません。
例えば、これまでの消費増税の際、「増税しても景気への影響は軽微であり、社会保障の安定によって経済は成長する」という説明が繰り返されてきました。
しかし現実を見ると、増税のたびに消費は冷え込み、成長率は低迷し、格差は拡大しました。
それでも理論の枠組み自体が維持され続ける背景には、強い前提があります。
合理的経済人や一般均衡といった仮定です。
これらは分析を可能にするための抽象化ですが、現実の不確実性や貨幣の役割を捨象しやすいという特徴を持ちます。
結果として、主流派経済学は実験室のような条件が固定された「閉鎖系」を前提とした議論になりやすくなります。
しかし現実の経済は、人間が自由意思で行動する「開放系」です。
そこでは予測不能性が本質であり、同じ条件でも同じ結果が生じるとは限りません。
とりわけ重要なのは不確実性であり、将来が本質的に予測できない世界では、人々は貨幣を保有し、投資や消費を慎重に判断します。
貨幣は単なる交換手段ではなく、不確実性への備えです。
しかし不確実性を十分に扱わないモデルでは、貨幣の意味そのものが弱まり、現実の経済現象の説明力も低下します。
予測の失敗を外部要因(運が悪かった、やり方が足りなかった等)に帰し、理論の核を守ろうとする姿勢も見られます。
主流派経済学の問題は、このように結論ではなく方法論にあります。
非現実的な前提を置くこと自体は抽象化として許されますが、予測が外れても理論が棄却されないのであれば、それは科学の営みとは異なります。
番組で見た一場面は、消費税の是非をめぐる議論であると同時に、学問と政策の関係そのものを映し出していました。
私たちが問うべきは「誰が言っているか」ではありません。
「その理論は検証されているのか」「現実を説明できているのか」です。
主流派経済学は科学と呼べるのか。
この問いは、経済政策そのものの質を左右する問いでもあるのだと思います。


