参加できない人は、どこにいるのか――ソーシャルデザインセンター事業

参加できない人は、どこにいるのか――ソーシャルデザインセンター事業

川崎市では、各区においてソーシャルデザインセンター(SDC)事業が進められています。

市の説明によれば、当該事業により、

・地域の人や団体をつなぎ、交流を生み、協働によって課題解決が図られる

・新しい公共のかたちとして期待が寄せられ、多くの取組が展開される

とのことです。

例えば多摩区では、相談支援や人材育成、ネットワークづくり、交流イベント、助成事業などが行われています。

川崎区においても、団体同士を結びつけるコーディネートや情報発信、社会実験などが制度として位置づけられています。

そこで汗を流している方々の善意や努力まで否定するつもりはありません。

地域のために動こうとする思いは、かけがえのないものです。

しかし私は、この種の制度について、どうしても考えなければならない問題があると思っています。

それは、参加できる人と、参加したくても参加できない人がいるという現実です。

仕事、子育て、介護、健康状態。

日々の生活のなかで時間を確保できない方は少なくありません。

経済的余裕や情報へのアクセスの差もあります。

これは個人の努力の問題ではなく、制度が自然につくり出してしまう構造です。

では、参加できない人は、まちづくりにどう関わっているのでしょうか。

その回路こそが、選挙です。

自分の代わりに判断し、責任を引き受ける代表者を選ぶ。

代議制民主主義とは、日常的な参加が難しい人の政治参加を保障する仕組みでもあります。

だからこそ、最終的な決定と責任は、選ばれた議会や行政が負う。

この線が明確であるから、活動に参加できなくても、私たちは同じ共同体の一員でいられます。

ところがもし、選挙とは別の参加回路が拡大し、そこに関わる人たちが実質的な方向性や資源配分に強い影響を持つようになったとしたら、どうなるでしょうか。

しかも、その人たちが誰を代表しているのか、どこまで責任を負うのかが制度として整理されていないとしたら。

参加できない人にとって、自分の意思がどこに反映されているのか見えにくくなります。

そして、「自分たちで決めている」という感覚は次第に弱まっていきます。

こうした共同体の基盤として重要になるのが、ナショナリズムという考え方です。

ここでいうナショナリズムとは、排外主義でも感情的愛国心でもありません。

負担や協力を当然のものとして引き受ける同胞意識のことです。

自分たちで決めた。

だから支える。

だから引き受ける。

この回路があるからこそ、共同体は成り立ちます。

しかし、その回路が不明確になれば、善意で始めたはずの参加の仕組みが、結果として代表制を空洞化させてしまう可能性も否定できません。

ここで申し上げたいのは、誰かを排除すべきだという話ではありません。

そうではなく、参加できない人の参加を、どの制度が保障しているのか。

ここを曖昧にしてはなりません。

提案や活動の入口は広く開かれていてよい。

しかし最終的な決定と責任は、必ず選挙で委任された回路へ戻ってこなければならない。

この整理があって初めて、参加の仕組みは共同体を強くします。

参加を増やすことは大切です。

しかし同時に、参加できない人をどう包み込むのか。

それを制度として考えることこそ、政治の役割ではないでしょうか。

包み込む設計を欠いたとき、この仕組みは意図とは逆に、共同体のもつ本来の力を、やがて蝕んでいくことになります。