財政論争はなぜ噛み合わないのか――貨幣と国債の定義から考える

財政論争はなぜ噛み合わないのか――貨幣と国債の定義から考える

衆議院総選挙に勝利した高市早苗内閣ですが、首相が掲げる「責任ある積極財政」に対しては、いまなお強い批判や不安の声が存在しています。

財政規律は守られるのか、将来世代への負担が拡大するのではないか、国債の増発は本当に持続可能なのか――。

こうした疑問が繰り返し提示されること自体、国民の側に慎重な視線があることの表れでもあります。

しかし同時に、その議論の多くが、「貨幣とは何か」「国債とは何か」という出発点の理解を共有しないまま進んでいるようにも見えます。

前提が異なれば、導かれる結論も変わります。

にもかかわらず、その前提が十分に確認されないまま、「将来へのツケ」という言葉だけが独り歩きしてしまう。

だからこそ、いま必要なのは賛成か反対かを叫ぶことではなく、まず議論の土台を丁寧に確かめることではないでしょうか。

消費税減税や政府支出の拡大が語られるたびに、「結局は増税で返すことになる」という主張が現れます。

この意見は、国債を家計の借金と同じ性質のものとして捉え、いつか税収によって返済しなければならない、という理解を前提にしています。

もしこの定義が動かしがたい事実であるならば、結論もまた変わりません。

支出拡大は将来負担につながる、だから抑制すべきだ、という話になります。

ところが、現在の通貨制度においては、国債は通貨を供給・調整する仕組みとして実際に運用されています。

国債は、政府が不足したお金をどこかから借りてくるという意味での借金というより、通貨を供給し、金融環境を調整するための手段です。

これは制度運用の実態として確認できる事実です。

満期を迎えた国債は償還と同時に新たな国債へと置き換わるだけの話です。

税の役割は、インフレ率の抑制、格差や景気の調整、あるいは人々の行動を変えるための政策誘導にあるのであって、財源確保の手段ではありません。

ましてや、国債の返済資金を準備することでもありません。

「国債=将来増税」という理解は、制度の一側面だけを切り取ったものです。

本当に問うべきなのは、国債を発行するかどうかという一点ではありません。

その資金を何に使い、どのような国の姿をつくろうとしているのかという中身です。

経済の基盤を強くするのか。

人々の生活を支えるのか。

将来の成長につながる投資を行うのか。

こうした議論こそが、本来の政策論争の中心であるはずです。

貨幣とは何か。

国債とは何か。

この出発点を丁寧に確かめることなしに、結論だけを急いでも、互いの理解が近づくことはありません。

財政をめぐる対立の本質は、数字の大小ではなく、前提の置き方にあります。

だからこそ私たちは、まずその前提を共有できるのかどうかから、議論を始める必要があるのだと思います。