圏央道8億円増額と市立労働会館改修工事の共通構造

圏央道8億円増額と市立労働会館改修工事の共通構造

首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の高架橋建設工事において、施工方法の変更により約8億円もの工事費増額が生じたことが報じられました。

上空を横切る送電線が当初の想定より大きく垂れ下がる可能性が判明し、予定していたクレーン工法が使用できなくなったことが理由とされています。

国土交通省とNEXCO東日本は、その背景として、近年の電力需給増加によって送電線の温度が上昇し、膨張によって垂れ下がり量が増えたと説明しています。

設計時には送電線温度を55℃と想定していたものが、施工時点では150℃まで上昇する可能性があると判断された、という説明です。

しかし、この説明は、少なくとも送電工学の基本的な前提から見て、技術的にも論理的にも成立しません。

送電線の温度が55℃から150℃へと95℃も上昇するためには、理屈の上では、送電電流が何倍にも増加しなければなりません。

そのような運用が首都圏の送電網で恒常的に行われているとは考えにくいからです。

取材によって明らかになったのは、150℃という数値は実際の運用温度ではなく、設計上の最大想定値であったという事実でした。

すなわち、本来は「起きる前提ではない安全上の最大想定値」が、「起きることを前提とした現実条件」へと、いつの間にかすり替えられてしまったのです。

問題の本質は電力需給の増加ではなく、最大想定値と運用実態とが混同された点にあります。

この工事は、道路インフラと電力インフラという異なる所管が交差する領域で行われました。

送電線は電力会社、道路は国と高速道路会社が管理していますが、「施工の前提条件を誰が最終的に確定し、その結果生じるリスクを誰が引き受けるのか」という点が、制度として明確になっていませんでした。

そのため、安全側として提示された最大想定値が、そのまま施工判断を縛る前提条件として固定化されていきました。

さらに、設計と施工の間に約8年という時間差があったにもかかわらず、前提条件を改めて検証し、整理し直す仕組みが十分に機能していなかったことも、この問題を深刻化させました。

前提条件はいったん設計条件として制度化されると、後から疑問が生じても修正が極めて困難になります。

結果として、工法変更という不可逆な判断が選択され、8億円という追加コストが発生しました。

その負担は最終的に公費として国民が引き受けることになります。

この構造は、決して国の大型インフラ事業に限った話ではありません。

川崎市の市立労働会館改修工事が泥沼化している問題も、同じ構造の中にあります。

労働会館の改修工事においても、設計、調査、発注、施工、監理といった各段階に、それぞれの担当者や受託者が存在しています。

しかし問題は、竣工図が存在しない、あるいは実態と整合しないという重大な不確実性を抱えたまま、不可逆な改修判断に踏み切るという選択を、誰が責任として引き受けたのかが見えてこないことにあります。

「どの時点で、どの情報を前提に、どのリスクを承知のうえで事業を進めると決断したのか」。

この問いに対して、明確に責任を負う主体が存在していません。

設計者は「当時得られた資料に基づいた」と説明し、施工者は「設計図どおりに進めた」と述べ、発注者は「専門家の判断を尊重した」と言い、管理側は「契約上の役割を果たした」と説明します。

いずれも制度上は正しい主張です。

しかし、そのすべてが正しいまま積み重なった結果、工事は停滞し、費用は膨らみ、完成の見通しは立たない状況が生まれました。

そして何より、改修に踏み切った判断そのものについて、誰も責任を引き受けない構造が固定化されてしまっています。

これは誰かの怠慢や判断ミスではありません。

竣工図がないという前提条件のもとで事業を進める以上、本来は不可避的に生じるリスクを、誰が引き受けるのかを制度として定めていなかったこと、その一点に起因する構造的な問題なのです。

ここでも問題は、個々人の能力や善意ではありません。

責任を引き受ける主体が、最初から制度の中に組み込まれていなかったことにあります。

責任の所在を曖昧にしたまま事業を進めると、問題が顕在化した段階では、誰も引き返す判断を下せず、誰も責任を引き受けず、コストだけが市民や国民に転嫁されることになります。

圏央道の8億円増額も、市立労働会館改修工事の混迷も、偶然の出来事ではありません。

前提条件の確定とリスクの引き受けを曖昧にした統治の在り方が、必然的に生み出した結果です。

公共事業において問われるべきなのは、「誰が悪かったのか」という物語ではありません。

前提条件は誰が、どの時点で、どの基準によって確定したのか。

その判断には、どのリスクを引き受ける責任が伴っていたのか。

その責任は制度と文書によって可視化されていたのか。

ここを問わなければ、同じ問題は繰り返されます。

圏央道と市立労働会館は、分野も規模も異なりますが、同じ統治の欠陥を映し出しています。

責任を曖昧にしたままでは、問題は解決せず、負担だけが市民に積み重なっていく。

その構造を直視し、是正することこそが、政治と行政が引き受けるべき責任だと考えます。