衆議院総選挙が、いよいよ終盤戦に入りました。
各党が改革を掲げるなかで、「身を切る改革」という言葉が、改めて強調されています。
日本維新の会の公式サイトを見ると、「身を切る改革を含む政治改革」として、複数の改革項目が掲げられています。
そこでは「まず議員が身を切る改革を実践し覚悟を示す」としたうえで、議員定数削減や議員報酬削減、文書通信交通滞在費の公開、企業団体献金の禁止、議会運営改革などが列挙されています。
しかし、ここで注意しなければならないのは、「なぜ議員定数を削減しなければならないのか」という点について、論理的な説明がどこにも示されていないことです。
列挙されている他の項目、たとえば文書通信交通滞在費の使途公開や企業団体献金の禁止については、「不透明さ」や「疑惑の温床」といった問題意識と、それに対応する手段との関係が、少なくとも読み取れます。
その是非は別としても、少なくとも何を是正しようとしているのかは理解できます。
ところが、議員定数削減については違います。
同公式サイトを通読しても、
・議員の数が多いと、なぜ政治が緩むのか
・議員の数を減らすと、なぜ緊張感が生まれるのか
・居眠りやヤジと、定数の多寡にどのような因果関係があるのか
といった点についての説明は、一切示されていません。
つまり、議員定数削減は、個別の問題に対する解決策として導かれた結論ではなく、最初から「改革の象徴」として置かれています。
ここに、「身を切る改革」という言葉の構造的な問題があります。
「まず議員が身を切る」「覚悟を示す」という表現は、政治家の姿勢や倫理を強調する言葉です。
しかし、姿勢や覚悟の表明と、制度設計の是非は、本来まったく別の次元の問題です。
にもかかわらず、その二つが混同され、「身を切る=定数削減」という短絡が、あたかも自明のように扱われています。
これは改革論ではなく、改革しているように見せるための記号操作に過ぎません。
居眠りやヤジが横行しているかどうかは、議員個々の姿勢や規律に関わる道徳の問題です。
一方で、適正な議員定数とは、政治家がどのように行動することが合理的になるかを規定する、制度設計=構造の問題です。
本来、居眠りやヤジ、政策論争の形骸化を問題にするのであれば、問うべきなのは、議会活動がどのように評価され、どのように選挙に反映されているのかという制度の側です。
議員の数を減らすこと自体は、そうした制度的問いに何も答えていません。
それどころか、議員定数削減は、当選できる議席の数を減らすことで、当選に必要な支持をより狭い層に集中させます。
当選のために必要な票が限られるほど、政治家にとって重要なのは、幅広い国民の理解を得ることではなく、確実に票をまとめてくれる特定の支持基盤になります。
この構造は、政治体制の違いにかかわらず観察されるものであり、たとえば独裁国家においては、より極端な形で確認できます。
独裁体制では、指導者が権力を維持するために必要な支持者はごく少数であり、軍や治安機関、側近といった限られた集団さえ押さえていれば、国民全体の支持を得る必要はありません。
その結果、政策は公共財ではなく、特定の支持集団に向けた利益配分に最適化されます。
同様に、たとえ民主国家の体裁をとっていても、「権力を維持するために、どれだけ広い支持が必要か」という点では、連続した構造の上にあります。
議員定数を削減することは、この必要な支持の幅を意図せず狭め、政治を特定の支持基盤に依存しやすい方向へと近づけます。
帰結として、議員定数を削減すればするほど、国民全体に対する緊張感は弱まり、内輪の支持を安定させる行動が、政治家にとって最も合理的な行動として固定化されてしまいます。
にもかかわらず、同公式サイトでは、こうした構造的帰結には一切触れられていません。
あるのは、「身を切る」「覚悟を示す」「古い政治を壊す」といった、感情に訴える言葉ばかりです。
この点において、「議員定数削減」は政策ではなく、空洞化したスローガンです。
空洞化したスローガンは、論理の検証を免除します。
だからこそ、「なぜ減らすのか」という問いそのものが、最初から置き去りにされているのです。
構造を示さない政治には選択も決断も存在せず、引き受けるべき責任も生じません。


